「タランティーノはアメリカの「蛭子能収」だ。」ヘイトフル・エイト jackyさんの映画レビュー(感想・評価)
タランティーノはアメリカの「蛭子能収」だ。
タイトルにもある通り、自分の現実では思い通りに行かない願望をそのまま漫画の原稿用紙に投影する「蛭子能収」の作風にこの監督はそっくりだ。
蛭子氏は故人のお葬式の最中にニヤニヤ笑う嫌な弔問客という「サイコパス」「発達障害」の負の強いイメージが芸能界では通例になっているが、彼の精神性とタランティーノのそれとが異常に類似しているように思えてならない。
まず、芸術作品を作る以前に作家自体の倫理性と一般常識が社会通念上ズレまくっている。
作品一般を見てきておしなべてこう感じざるを得ないのだが、この監督は本来の自身の性格がこうなのか、同じような変質者の男子ファンからの受けを狙っているのか「女心というものを全く解していない」!
「パルプ・フィクション」中でマドンナの「ライク・ア・バージン」の歌詞の意味をそっくりそのまま現実の「女性心理」として監督自身が受け止めていたというが、後日談で当のマドンナから正しい歌詞の意味の解釈と女性の表面には表出されない裏の心理を懇切丁寧に指摘されたというからお笑いである。
アン・ルイスのかつての歌で「女はそれを我慢できない」というのがあったが、あの歌詞を現実の女性もそう考えているのだと勘違いしているバカな男の代表格だったのかもしれない。
監督自身も。
少年のころから恋愛小説も女性が読むような書物も全く読まずに、くだらない成人漫画やB級ホラーやアクションものの映画ばかり見てきたのか、頭の中が、女性とは「男に都合の良いようなHな女性」ばかり思い描いてきたのだろうか?
全く、おめでたい「男のコ」である。
また、それにもまして、更に最悪で辟易させられる事実が、タランティーノの描く作品には、女性が残忍な殺され方やリンチシーンで溢れている所である。
「キル・ビル」の最後のジュリー・ドレフュスの両腕を切り落とすシーンしかり、「ワンス・アポン・ア・タイム……」の最後のヒッピー女性への火炎放射の報復しかり、今回の当作品の女性へのリンチシーンしかり、タランティーノは「女性」という生き物に対し並々ならぬ「偏見」や「復讐心」のような負の感情を持ち続けているような心性をその一連の作品から感じ取れてしまう。
現実の私生活で「女性」から何か屈辱的な裏切りでも受けたのか?
派手に袖にされたのか、裏切りに近いフラレ方でもされたのか?
とにかく、タランティーノの劇中にはこれでもかと女性に対するひどい「虐待」にも近い扱われ方が目に余るのだ。
女性という生き物は男性と違い少し小ズルく、物事を率直に正直に言わず、暗号のようなキーワードやボディランゲージ等で自分の心理や生理的な感情を表出する現実をこの監督自身が全く解していないのだろう。
女性の言葉をそれこそ「バカ正直」に受け取ってしまうのだろう。
この男は。
それこそ、世に氾濫するバカ男の典型みたいな人がタランティーノ監督の本来の性格なのかもしれない。
日本の蛭子能収氏もタランティーノ監督と同じような感覚で女性を捉えている。
氏自身、無類の「H好き」で、結婚した理由は無料でHをしたい放題というくらいの色好みである。
氏にとっての女性もやはり「穴」目的なのだろう。
全く、お粗末な「女性観」である。
サザンのかつての歌で「♪~女なんて揉んで吸って、いい気持ち~!女なんてそんなもの~♪」というのがあったが、このくらい二方の女性観は女性にとって不当に冷たく、残酷で、容赦ない。
女性の心が理解出来ないからせめて映画という虚構の中で妄想でも良いから女性を凌辱して、自分の言う事を聞かせたいというお粗末な「男」の心理状態そのものなのだ。
このタランティーノという「オタク」は。
現実に映画でも撮っていなかったなら、おそらくこの男は幼女誘拐殺人とかレイプとかとんでもないSM的な変態行為を女性に対して行っているのだろう。
現に、「足フェチ」であるし………・
また、事実、「女性蔑視」であるのか?という問いを「ワンス・アポン・ア・タイム……」完成時に女性インタビュアーから受けた時も、この男は頑なに返答自体を拒んだ過去がある。
また更に悪い事に、蛭子氏もタランティーノ氏同様に自分の作品中で不条理な殺され方をキャラクターに課す。
なぜ、この人を殺すのか?
蛭子氏の漫画では「必然性」というワードが全く符号しない。
まるで、殺される人が蛭子氏にとって個人的に気に入らないというか、現実生活で何かトラブルにでも巻き込まれたというか、第三者には全くわからない経過や理屈で「不自然に」惨殺されるケースが多々ある。
だから、読者としては、蛭子氏の言わんとするメッセージが全く理解出来ないし、共感も出来ない。
「俺様がこう思うのだから、読者も俺の感覚に従え!」と、まるで、価値観を押し付けてくるようなそんなマイナスな感情にいつも蛭子氏の漫画を読むたびに感じる。
これは、タランティーノの提唱するオマージュという価値観を観客や視聴者に押し付ける事実にも見事に類似している。
品性下劣なキャラクターと一貫するストーリー性のなさ、リアリズムの欠如、殺す必要もない者を殺す非情な世界観、どれを取っても「蛭子氏」の漫画の作風に共通している。
おまけに、異例の出たがりで、漫画を描く以上に、メディアやTVに出演したがる、異常な「目立とう精神」まで2人の行動は共通している。
ただ、劇中で楽しく演じている居られるお二方は、自己満足を満たしておられて、結構だが、演劇の訓練も受けていない、また、お世辞にも良い「イケメン」でもないお二方の「ふざけた演技」を見せられる観客のこちら側としては、正直申し上げて「辟易」させられるし、呆れるし、白けっぱなしである。
「不細工なマスク」はあまり見ていて気持ちの良いものでない。
2人の共通した性格は「品性下劣」であり、異常なほどの「目立とう精神」である。
また、徹底的な「独りよがり」な作風である。
「品性下劣」な作家が作る作品が世の映画ファンから好き嫌いを生じさせるは必然の結果である。
故エンニオ・モリコーネがタランティーノの作品を過少評価し、毛嫌いしていたのもわかる。