「エイリシュの現実主義は「ゴッドファーザー」だ。」ブルックリン よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
エイリシュの現実主義は「ゴッドファーザー」だ。
アイルランドからの移民の女性という退屈になりがちな題材を、主人公エイリシュ・レイシーの人生の機微を捉えた引き締まった物語へと昇華させている。
主人公がニューヨークへ渡るまでの部分は、テンポよくつないだカットで語り、観客を退屈させることなくうまく乗り切る。
物語が本格的に動くのはエイリシュがニューヨーク行の船に乗ったところからである。
船が嵐に突入したところでは、船酔いで嘔吐する場に困るどころか、下のほうにも不自由をするエイリシュの姿が生々しく描かれる。ここでは旅慣れた同室の客に教えられて、なんとか彼女はトイレを奪回することができる。
多難な前途を感じさせるこのシークエンスは、しかし同時に、生き抜くために必要な冷徹さを親切でお人好しのこの田舎娘が身につけたことを示す。奪回したトイレを、彼女は二度と相手には譲らない。相手が自分と同じように悲惨な状況に陥ると分かっていながら、彼女自身の従来のモラルに反することを貫徹するのだ。
ここでエイリシュが得た現実主義の徹底こそが新世界のモラルであり、本作の太い経糸となる。ここでは若い女性の夢や恋はその現実主義に危機をもたらすイベントとして背景に追いやられる。
この映画が一人の人間の生き様を描くまでに深まった最大の理由はここにあるのではないだろうか。
ダンスパーティーで恋の相手を見つける際にもその冷徹さは発揮される。
鼻持ちならぬ新入りを良くは思っていないエイリシュは、自分が男に誘われたことを理由に、その新入りをダンスパーティーに置き去りにする。大家からこの新入りの保護者役を任されていたにもかかわらず、彼女を残して夜の街へ男と二人で消えたのである。
そして、エイリシュの現実主義にとって最大のリスクテイクが、下宿の自室へ誘い込み肉体的に結ばれるときであろう。
このときの彼女は、それまでに築いてきた下宿生活での信用と優遇を賭して、お互いに本気で好きだと分かった男との結婚の約束を勝ち取る。
重要なのは、これがロマンスを描いているのではないということである。移民という社会の新参者が、現実的な判断の積み重ねによる行動によって、その社会における地歩を固めていくことを描いているのだ。
ここを単なる若い男女のロマンスと捉えると、後に姉の墓参りの為に戻った故国で、アイルランドの金持ちの息子に求婚される前後のエイリシュの行為が不可解になるであろう。
しかし、この一時帰国の部分にも彼女の現実主義は貫かれており、今後の人生を故国で過ごすのか、アメリカで過ごすのかという二者択一を彼女の現実感覚に基づいて行っている。
ただしこの時点で彼女が故国に残ることなどないであろうことは、そもそもからして明らかなのである。エイリシュが着ているニューヨークの服が素朴なアイルランドの風土の中では目立ちすぎている。
本作は「ゴッドファーザー パートⅡ」における、ヴィトー・コルレオーネの若かりし日々の回想部の女性版ともいえる。主人公エイリシュ・レイシーが人生を託すのはイタリア人の男なのは、たまたまではあるまい。