「『宗教』という曖昧模糊」スポットライト 世紀のスクープ いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
『宗教』という曖昧模糊
日本で生まれると本当に馴染みが薄いものの一つが『宗教』である。繰り出す行事は日本人ならではのアレンジ力で表面だけ撫でているが、実際それが生活に深く根付くということはない。だからこそこの作品の本当の意義は、自分にとって強く合点がいくという気持ちに至らなかったというのが正直なところ。肉親や家族よりも信じることが出来るという対象物に出会うのは果たして幸運なのだろうか、どうなのだろうか…
キリストカトリック教会内での子供への暴行事件を追う少数精鋭の新聞記者チームの軌跡を辿るプロットになっている作品である。
新しい編集局長が赴任してきて早々、キリスト教神父による幼児虐待の事件について記事にするよう指示を出す。そこから、その加害者が一人ではなく、かなりの数の人間が発覚し、そしてそれを公表せず、隠蔽工作まで行うカトリック教会自体への糾弾へと大ごとになる、社会の暗部に『スポットライト』を照らす働きをスリリングに描写している。
只、この作品のキモというか、裁判所での情報開示の件が、非常に早すぎてついて行けない部分がある。字幕を追いながらではかなり厳しい。どんでん返しというか、法律の裏を突くような資料の開放方法なのだが、今ひとつ理解出来なかったので、非常に残念。というか、自分の頭の悪さを呪うばかり・・・ 馬鹿は映画も楽しめないわな。
そして、どんどんと証拠資料や取材ソースも溜まり、満を持して紙面に発表することになるのだが、これ程までに執念を燃やすのは理由があった。それは正にこの犯罪の告発が過去にあったとき、他の取材が取り込んでいてスルーしてしまった事への悔恨なのである。もっと早く記事にしていれば数多くの被害者が生まれなかっただろうという想いが、リーダーにはあったのだ。そういう意味では自分も加害者の一人だという信念が巨大な組織を動かした力なのである。
組織、それも“宗教”という光が強い団体はその分だけ闇が深い。組織を権威を維持するための働きは相当重く強い。そこを切り込む力はそれを凌駕するもの、それを“信念”というものなのだろう。
ちなみに元になった『ゲーガン事件』の首謀者ゲーガン神父は、収容先の刑務所で他の受刑者に殺されたとのこと。ここにカタルシスを看るのか、それとも・・・