「漫画「漂流教室」≠「進撃の巨人」で、がっかり」エイリアン コヴェナント たけろくさんの映画レビュー(感想・評価)
漫画「漂流教室」≠「進撃の巨人」で、がっかり
すっごく楽しみにしてました。前回のプロメテウスの時も、見る前は「ワクワク!」でした。そしてプロメテウスを見たあと「がっかり…」したのですが、「まぁ、次に期待しよう!」と、あの時は思えました。しかし、今回味わった「がっかり感」は、前回より一層ヘビーです。そしてその「がっかり感」は、当初わくわくして「進撃の巨人」を読みすすめていたところ、次第に「あれ?」となり、やがて「なんだよ、そっちに行っちゃうの?…」みたいな感じになった時に味わった「がっかり感」と同質のものです(ただし、『進撃の巨人』の原作は別のベクトル・構造を持っており、素晴らしい作品だと思っていることを付言します)。
「宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない」というコピーに、それまで感じたことのない恐怖を覚えたのは小学生の頃でした。その「怖さ」とは、やれ幽霊(人間の霊)だとか「ジェイソンだ」とかいう類いのものではない、未知の『世界』・未知の『存在』に対する恐怖でした。
生命(いのち)を含めた「世界」を創ったのは、人知を越えた「何か」だと思います(そう思いたいですし、そのハズです)。またその「何か」とは、「人間の善悪」とはおそらく無縁のものでしょう。確かに「スペース・ジョッキー」は「クリエーター」ではなく「エンジニア」と称されており、ニュアンスの違いを感じさせはしますが、創造主としては「既視感」「現実感」がありすぎます。また「アンドロイドがピノキオよろしく背伸びする」という設定も、いかにも人間が考えそうな「お話」です。
前作のタイトルは「プロメテウス」、今回は「コヴェナント」ということで、ヨーロッパ世界で共有されている「神話的世界観」のもと、物語のフレームワークは組み立てられているようです。そして、引用される詩歌や音楽を通じて「人間中心主義(=ヒューマニズム)」の限界が謳われているようにも感じます。しかし、リドリー・スコットが「そこに深遠なテーマが隠されているのだ!」と言うつもりなら「スコット御大、本気でそう思ってます?」と問いたいです。
「人間中心主義(=ヒューマニズム)の限界を訴える!」と言いながら、「未知の存在」を「既知のもの」に置き換え、「世界」を「人間にとって認識・把握可能なもの」に置き換えてしまっている時点で、その態度は既に「不遜」であり、「人間中心主義(=ヒューマニズム)」そのものだと思うのです。話が少し逸れますが、同じくリドリー・スコットが監督した作品に「悪の法則」があります。劇の終盤では「臆病者は現実から目をそむけるが故に残酷だ」というパラドキシカルなテーマが示されますが、今作品では、同質のパラドックス(「反人間中心主義」を唱える「人間中心主義者」)をスコット監督の姿勢に感じてしまいました。
一方で、世界が説明可能であることを徹底的に拒否しつつ、理不尽で恐ろしい世界に人間を直接対峙させるなかで「人間存在」を描ききった漫画家がいます。楳図かずおです。楳図が漫画『漂流教室』で描いた「世界」は剥き出しの恐怖で埋め尽くされていて、その限界状況のもと大人たちは自壊していきますが、子供たちは仲間と共にその世界に立ち向かっていきます。その姿は健気で逞しく、そして美しいです。
人間が体現し得る価値は、世界(=絶対者)としおらしく向き合うところにしか見出だせないし、一神教のなかで紡がれた「我と汝」の物語の本質は、本来そこにこそあるハズです。(ちなみに私は、ギーガーと楳図にシミラリティーを感じており、あのエイリアンをデザインしたギーガーなら、世界を認識可能な対象とするアプローチを断固拒否したのではないか…と勝手に推察しています)。
というわけで、「人間中心の物語」となってしまったエイリアン・シリーズですが、デイヴィッドのショウ博士に対する愛は「あまりに人間的」で、本当にグロテスクです。その意味からすれば、テーマはすり替えられたうえ、作品の方向性はより「キッツい!」方向で深められている…とも言えるかもしれません。でも「なるほど、文学的だねぇ~」とは、私は思えません(二役を演じたファスベンダーの演技は素晴らしかったですが…)。
散々監督の悪口を書きましたが、人間のテクノロジーが人間を世界の中心に立たせてしまうような時代が、このあと本当に訪れるとしたら、それはとんでもなくグロテスクな「新しい世界」です。スコットが「そんなことにはならないで欲しい…」と願っている「臆病者」がいるのを見越して、今作品を作ったとするのなら「御大、参りました」となるわけですが…。
というわけで、次回作(アウェイクン?)も観るでしょうし、ブレード・ランナーも観ることになるんだと思います。
近大さんへ
早速のレス、ありがとうございます(とても嬉しいです)。
近大さんが書かれているように、プロメテウスもコヴェナントも、ある種の様式美を思わせる「黄金のワンパターン」でしたね(笑)。
また、近大さんの『「エイリアンは俺の作品だ!」という監督の強い思いが、スコットをして「創造主」たらしめたのだ』というご指摘も、「なるほど!」と思いました。
さて、「21世紀のブレード▪ランナー」はどんな内容になるのか、お互い楽しみに待ちましょうね!
初めまして。
コメントありがとうございます♪
見ている途中から、劇中の“創造主”はリドリーの事なんじゃないかと、どうも引っ掛かってしまいました。
書かれていられる、未知の存在が人間の把握可能…に同感しました。
やはりあの生命体は人知を超えた存在であって欲しく、まさかその誕生の秘密に…何だかかなりガッカリしました。
リドリーはキャメロンの2は好きなようですが、3と4は無かった事にしたいようで、“自分の”エイリアンの世界を創造したいのかもしれませんね。
最も自分は、それぞれの監督の特色あるシリーズが好きだったんですが。
勿論、リドリー・スコットも非常に大好きな監督の一人です。
長々と失礼しました。