「新船長は大間抜けだが、伏線の回収は見事!」エイリアン コヴェナント 曽羅密さんの映画レビュー(感想・評価)
新船長は大間抜けだが、伏線の回収は見事!
エイリアンシリーズの新作である。
第1作目の『エイリアン』は、筆者が小学生の時に週末の○○洋画劇場でよく放映されていたが、あまりの怖さに観られなかった。
今では第1作はもちろんのこと『エイリアンVSプレデター』シリーズも含めてエイリアンシリーズは『エイリアン4』以外はすべて観ている。
前作に当たる『プロメテウス』も映画館で観ているが、まさかエイリアンシリーズの1つとは思わず、殆どの観客と同様壮大に騙された。
地球人を産み出した高等人種(エンジニア)と地球人との出会いと対立が描かれていくと思いきや途中からあらぬ方向に物語が進んで行く。
待てよ、監督は誰だっけ?リドリー・スコット?ん、ん、エイリアンと同じ監督だぁ〜。そう来たか〜!
ご存知のようにエイリアンの前日潭だった。
本作はこの『プロメテウス』と第1作『エイリアン』の間をつなぐ話になるらしい。
『プロメテウス』の最後を観て、スコットはまた飯の種を確保したなとは思っていたので続編ができたことには全く驚かなかった。むしろ本作まで5年空いたので続編制作に時間がかかったなという印象である。
筆者は本作を観る前から、エイリアンが人間たちを殺し、そのうち何人かが生き残ってエイリアンを撃退はするけれど全滅するわけではなく、次作へ続く余韻を残す作品になるのが大前提になるだろうと予想した。
映画『スターシップ・トゥルーパーズ』の原作はロバート・A・ハインラインの『宇宙の戦士』というガンダムの起源とも言えるヒューゴー賞を授賞したSF小説の金字塔だが、『エイリアン2』のみ逃げ惑うのではなく重装備で真っ向からエイリアンと戦う『宇宙の戦士』的な傾向が入るものの、シリーズ全体としては大体上記の要素を踏襲している。
以上を踏まえた上で本作を鑑賞したが、想像以上に面白かったというのが筆者の偽らざる感想である。
本作の主役が勇敢で賢い女性という設定は、シリーズ1〜4のシガニー・ウィーバーが演じたリプリー、前作『プロメテウス』でノオミ・ラパスが演じたエリザベス・ショウに共通する。
また主役に線の細い綺麗目な女優ではなく見た目のごっついたくましい女優を抜擢するところも共通している。
このシリーズには、大体においてエイリアンの巣にのこのこと近付いてエイリアンを産み出す母体となる間抜けが必要になるが本作にもやっぱり登場する。
正式な船長であるブランソン(ジェームズ・フランコのチョイ役)が事故で急死したために後を継ぐことになったビリー・クラダップ役のオラムがその間抜けに当たる。
2000人の冷凍睡眠中の民間人と他の船員の命を預かる責任がありながら、人間の居住可能な未知の惑星が見つかったらホイホイと出かけていく無謀さ。
しかもその際、探査船を出すのだが、必要最低限の人数3人を船内に残して11人で向かってしまうあさはかさ。普通は逆に必要最低限の人員で調査に向かわせるし、未来の進んだ技術があるなら無人の探査船も用意できそうである。
部下を無惨に殺害したエイリアンをなんとか殺すことに成功したのにそれを感情的になじるアンドロイドに言われるまま彼の後ろについて行き結局はエイリアンの母体となる不用心さ。
本作の最大の弱点はこの新しい船長の相当な馬鹿さ加減にある。
こんな奴はまず大事な宇宙船の船員に選ばれない、よしんば選ばれたとしても船長に何かあったら繰り上げで船長になるような地位につけないだろう。
ただ物語の展開上このとんだ大間抜けがいないと話が転がって行かない。
本作の最大のツッコミどころが幾分薄まったのは、クラダップがすべてに不安そうでお馬鹿な人物を好演してくれたおかげで、ある程度の説得力を持ったからだと思う。
その他の要素も含めて本作は映画全体として第1作の『エイリアン』に近い印象を受けた。
しかし本作はなんと言っても伏線の回収が見事だった。
冒頭でワーグナーの作曲によるオペラ『ラインの黄金』第4幕の「ヴァルハラ城への神々の入場」が流れる。
しかも伴奏なしのピアノだけで流れるので、初め聞いただけでは余程の人でない限りタイトルが明かされるまで同曲とは気付けない。
筆者はワーグナーのファンでこのオペラのCDも数種類所有しているし、DVDでではあるが、実際のオペラ映像も観ている。
ワーグナーは歌が中心だった歌劇を音楽中心の楽劇に変えた音楽界のパイオニアで、ベートーヴェンも彼という作曲家が存在していなければ今ほど有名にはなっていない、それほど信奉した。
またオペラ作曲者は普通は作曲するだけで台本は書かないが、彼は自作のオペラにおいて殆どの台本を自分で書いている。
また指揮者としても一流で独自の指揮理論を確立し現代の二大潮流の1つとなっている。
(ただしワーグナーは金と女にだらしないウソつきで、ニーチェから「人間ではなく病だ」と言われるほど人間性はクズである。)
本作のまさにラストでこの曲が重層的な本来のオーケストラで流れる。
この演出は素晴らしい。
実はこの『ラインの黄金』は『ニーベルングの指輪』という一連の作品の第1作目の序夜に当たり、その後、第1夜『ワルキューレ』第2夜『ジークフリート』第3夜『神々の黄昏』と続いていく。
そして北欧神話に題材を取るヴォータン(オーディン)を中心とした神々は最後は滅ぶ。
デヴィッドの未来を暗示しているようにも取れる。
また同じく冒頭でアンドロイドにデヴィッドと命名されたのがミケランジェロの『ダヴィデ像』を由来とすることが明かされるが、ダヴィデは巨人のゴリアテと戦った英雄である。
前作『プロメテウス』で巨人族のエンジニアと戦うことがさりげなく示されているのも秀逸だ。
もう1点、本作の終盤で恐ろしい心を持ってしまったアンドロイドのデヴィッドが人間には絶対に逆らわないウォルターに成りすましているのは誰の目にも明らかなので、後はいつ何を理由にそれを主役のダニエルズが気付くかが焦点となる。
ダニエルズが冷凍睡眠に入る直前にウォルターが知っているはずのロッジを共に建てる約束を持ち出すが、もちろんデヴィッドは知らない。
ここでダニエルズはやっと気付くのだが、もっとその前に確認しておけるだろ!という指摘は別にしても、苦悶の表情を浮かべたまま睡眠に入るダニエルズの恐怖はいかばかりか、見事な演出である。
この手の映画を観ていてなぜ日本でこういった作品が制作できないかハタと気付いたことがある。
まず日本人なら窮地に陥った際に自分を助けるために仲間が犠牲になることを受け入れないのではないかと思った。
当然探査船も壊れてエイリアンという未知の危険生物とデヴィッドという得体の知れないアンドロイドの存在に気付いた段階で2000人の民間人の安全を犠牲に自分たちが母船に帰ることをあきらめるのではないだろうか。
また『ターミネーター』しかり、クリストファー・ノーランの『インターステラー』もそうだが、ハリウッドはもちろん欧米のSF作品はディストピア作品が多い。
地球に人間が住めなくなった、機械が人間の命令を聞かずに暴走する、人間より恐ろしい異星人に侵略される、などなど。
地球を壊しているのは自分たちであり、過去には黒人を奴隷として酷使し、1000万いたインディアンの人口の95%を滅ぼした、など潜在的に贖罪意識でも抱え込んでいていつか誰かに復讐されるとでも思っているのだろうか?
リドリー・スコットの制作総指揮のもと名作『ブレードランナー』の続編が近々日本でも公開される予定である。
『エイリアン』に続いてまたまたお決まりの続編である。どうやらスコットのひらめきの泉は枯渇しているらしい。
あっ、そういえばこの作品もレプリカントの方が人間より優秀なんだっけ?