「もうあのエイリアンはどこにもいない。これは「アンドロイドの反乱」映画」エイリアン コヴェナント 豆腐小僧さんの映画レビュー(感想・評価)
もうあのエイリアンはどこにもいない。これは「アンドロイドの反乱」映画
プロメテウスでもしやと思っていたが、とうとう今作で確信に変わってしまった。凡作である。
あの鮮烈でショッキングな映画「エイリアン」は、回を重ねるごとにそのギーガーの魔法も見事にとけてしまい…ここでとうとう凡作に終わってしまった。
リドリー・スコットが無理やりそのテーマを「種の起源の深遠かつ壮大さ」に舵取りをした結果、あの1、2作で興奮したギーガーのイメージで彩られたSFサバイバルパニックはもう戻ってこないのだ。
…この映画を観て、つい想像してしまうのが「やはりリドリー・スコットはギーガーに嫉妬していたのではないだろうか?」ということ。
そう、観客は映画「エイリアン」=H.R.ギーガーなのである。みんなギーガーのエイリアンが観たいのだ。リドリーはギーガーを見出したのは自分であり、あの映画は自分の作品であるという思いがあるだろう。ゆえにリドリーはギーガーのイメージの泥沼から脱却を目指そうと錯誤した結果、テーマ負けして凡作となってしまったのではないか。失敗である。
もはやみんなが渇望するエイリアンは借り物と化し、アンドロイドが主役の映画なのである。エイリアンを表に出さなければ、普通のSFサスペンスでそこそこ観られるであろうという皮肉な映画なのだ。
しかし中途半端に色気を残し、あのリプリー枠を残したのは失策だった。そこに収まったキャサリン・ウオーターストーンはひと言で言えば…つまらない女。戦う女リプリーと比較しては可哀想なのだが、そこになぞってしまった以上、仕方ない。リプリー、やっぱりアンタ最高だったよ。エイリアンと対等な女優はやっぱりシガニー・ウィーバーしかいない。
まぁ…AIが注目されている時節がら「アンドロイドに意思と創造性をもたせるとろくなことにはならない」という映画でしたw