「失敗したリメイク」美女と野獣 nstc11さんの映画レビュー(感想・評価)
失敗したリメイク
アニメ版「美女と野獣」はディズニーアニメの中でも屈指の傑作のひとつであり、本来的にはリメイクが必要がないくらいに完璧ともいえる傑作である。
本作はその実写化リメイクということでアニメで描かれた美点を、実写として損なわずに、かつ深化させて描くことができるかということに注目がされた。
結論としては、明らかに失敗であると思う。
まずつまらないのが演出がアニメと同じか、アニメ以下になっている点である。
例えば、ミュージカルでは、アニメと同じように人が配置され、同じようにしか動かない。アニメをただ人が代わりにやりました、というだけでしかなく、演出の上限がアニメに設定されている。それどころか、アニメで素晴らしかったミュージカル部分の演出がカットされる部分も多々あり、アニメには遠く及ばない。
演出がアニメ未満であることはミュージカル部分に限られず、全体をとおして、アニメと同じ表現をしながら魅力的な部分がカットされており、アニメに遠く及ばないことになっている。そうであれば、アニメを見ればよく、本作の存在意義が不明である。
以上のように、全体を通してアニメを超えようとしない演出が本作の致命的な欠点である。
次に、不必要な説明が多々ついたことが興をそいだ。
例えば、夜襲を行うときにル・フゥが「本当の怪物は何か」と夜襲に疑問を呈する旨のショットがあった。これは「本当の怪物」が野獣ではなく、扇動される村人らや扇動者ガストンであることを示唆したセリフであり、アニメ版を鑑賞した観客の多数が行う解釈を示したものである。こんな誰でもわかるようなつまらないセリフをなぜあえて挿入したのか理解に苦しむ。それを表現したいのであれば、セリフで喋らせるのではなく、「夜襲の歌」の演出の中で表現した方がずっとよかった(が、本作の「夜襲の歌」はただ歌っているだけで、アニメ版にあったようなガストンの緻密な扇動はカットされ描かれない)。
また、本作では、魔女に一定のスポットがあたる。それによってアニメのストーリーより面白くなる可能性があるはずもなく、無駄な時間になっている。
さらに、本作では、野獣の過去として粗暴になった原因が描かれるが、全く要らない。野獣の姿であんな森の奥に住まざるを得ない状況であるのだから、粗暴にもなるのは当然であるため、そこに理由など不要である。
また、ベルの母親までもが登場しモーリス・ベル・母親の関係性が描かれ、モーリスとベルの関係を強める場面がある。これも全く要らない。モーリスはベルの父であるし、ベルは村から「ファニーガール」として扱われており頼れそうなのは父親しかいないことから、二人の関係はもともと強くても何も問題がない。あえてそれを強める表現をする必要がない。
さらに、アニメから悪化した部分として、ベルを村に返した後の野獣の歌がある。ベルに対する未練を格好良く、壮大に歌い上げ、愛するベルのために自身の身の危険とベルへの愛を割り切ろうとしているかに見える。しかし、この後、アニメ通り、野獣はベルを喪失したことにより無気力になる(多数の家来が危険に晒されるのに大した対策もとれないくらいに)。じゃあさっきの格好良い歌いっぷりは何?と思わざるを得ない。ベルを村に返したいけど返したくないといった葛藤の歌であればよいのにと思う。
また、ガストンの人望のなさも改悪である。アニメ版ではガストンは英雄として人望が厚く、だからこそベルが(村人にとって)ファニーガールだったことが顕著になってベルに感情移入できるし、夜襲の歌も盛り上がる。だが、本作では必ずしもそうではなく、「ガストンの歌」ではル・フゥが村人にチップを配ったり、動かしたりしながら、ガストンを盛り上げるために協力を募る。ガストンがモーリスを殺そうとしたとなれば、村人はガストンに対する疑惑の目を向ける。これらの振る舞いから村人は常識人らしく見える。ベルがファニーガールとして孤立するのが変であるし、夜襲の歌以降も変になる。
ただ、全くほめるべき点がないかというとそうでもない。
アニメのイメージを損なわないようにするためか、キャラクターはアニメのイメージぴったりであったし、舞台・セットもイメージどおりである。同じものを作る拘りは良かったのではないか?(とはいえ、だからこそアニメを超えることができないことになってしまうため、アニメと同じようにする必要はないと思うが…)。
以上のとおり、本作のリメイクとしての出来は悪いと思う。ディズニーは、今後も過去の素晴らしいアニメ作品をリメイクをする予定があるようであるが不安である。