映画 聲の形のレビュー・感想・評価
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罪悪感?
小学校の教室のシーンで、転校生がやってきて挨拶をするが、ノートに書いた文字によるものだった。その後、すぐにいじめの対象になってしまうということがわかり、嫌な予感がしてしまった。結局、彼女はいじめが原因かどうかわからないが転校してしまう。
高校生になった主人公は、彼女と再会し、今度は恋愛の対象となる。最初、この展開はありえないと思ったが、子供の頃は好きな異性に対して照れ臭いから、かえってぶったりして注目を引こうとするが、それに近かったのかな?だから、いじめっ子の女子が言っていた、「罪悪感的な」感情で付き合っていたと言う事ではないと思う。
最後は、すべてが良い方向に収まるハッピーエンドとなる。感動的な良い作品だったが、2点気になるところがあった。
1つは、主人公が稼いだアルバイト代170万円を母がうっかり燃やしてしまうこと。それはないだろう。もう1つは、花火大会の途中で、彼女が自殺未遂を図ったこと。これもそれはないだろうと思った。あまりにも唐突すぎる。その後ちょっと考えて、これはもしかしたら幸せの絶頂で人生を終りにする「髪結いの亭主」のパターンなのかなとも思った。でも違った。
視覚障害の人が出てくる映画は結構多いが、聴覚障害の人が出てくる映画は意外に少ない。前述の、「雨鱒の川」や「レインツリーの国」、古くは「愛は静けさの中に」ぐらいしか見ていない。どれもいい作品だった。あと、まだ見ていないが、松山善三監督の作品「名もなく貧しく美しく」もあったので、今度見てみよう。
いじめの問題を扱っているので、深刻になりがちだが、女の子のキャラがいわゆる萌え系で、そのギャップが個人的には気に入っている。
あと気に入っているのは、主人公が距離を置く同級生の顔には✖︎が付いていたが、親近感が生まれてくるとその✖︎が落ちて顔がはっきりわかるようになること。特に最後の学園祭で、一斉にみんなの✖︎が取れたのは、、ハッピーエンドの感動を盛り上げる素晴らしい演出だった。
見える声。伝えたいこと。
京アニ見なくっちゃ、と思い立ち。
"The Shape of Voice"
声に出したいこと。声にして言いたかったこと。伝えたいこと。
誰もが、伝えなければならないことや、伝えられなかったこと。言えないこと、言われたくないこと。たくさんの想いを抱えながら生きている。
会いたい理由
死にたいと思う訳
嫌いな理由
冷たくした訳
学校に行かない理由
友達が欲しい気持ち
顔を上げて歩けない理由
君をどう思っているか
君にどう思って欲しいか
君とどう生きて行きたいか
病院を飛び出した石田は、橋の上にうずくまる綃子を見つけます。想いを伝えた石田に、硝子はカタチのある声を返す。「約束します」。
予想に反して、思ってた以上に忙しいアフター・コロナ。新作が掛からないから退屈だと高を括ってたら、週末の上映予定を見てびっくり。午前十時の映画祭は文字通りの祭りになってるし、人気のあった旧作もゴリゴリに詰め込まれとるし。平日鑑賞への振り替えしか選択肢が無いので、珍しく木曜日に劇場へ行って来ますた。
初鑑賞でした。
良かった。とっても。
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5/29追記
海外版のタイトルを調べると ”A Silent Voice”. 「音無き声」でオリジナルの邦題は「聲の形」。”The Shape of Voice”と"A Silent Voice". なんで微妙に違うんだろう、って不思議に思う一方で。聲の形、音無き声が何を指していたのかが肚落ちしました。
"A Silent Voice"は「あるひとつの手話による伝達」の場面を指し、”The Shape of Voice”は「それを特定している」。最後の「指切り」。自死を考え、実際に実行しようとした二人が「一緒に生きよう」と約束した、あの場面での指切りが映画としてのタイトルなんですね。これは好きやわぁ。すごく好き。
他人の聲の聞き方
原作がよいのか。
アニメーションがよいのか。
おそらく両方かと思いますが、
よい作品ですね。
原作は最初の方だけ読んだ段階で映画を見ました。
高校生の甘キュン恋愛要素もあり、
障害者のいじめ問題もあり、
なのですが、メインは意外にも別でした。
他人とどう分かり合えるか?
他人にどう心を開くか?
みたいなこと。
見る前のイメージよりは、ややダークな内容でした。
各キャラクターの設定が面白いです。
私は特に川合さんの言動に注目でした。
優等生なんだけど(がゆえに?)実際は物事を悪い方向にかき回してるという興味深いキャラクターでした。
京アニ作品を見たのは初めてかもしれません。
熱烈なファンがいることが納得です。
言葉を聲にする大切さ
非常に面白かった。これだからアニメーション映画はますます大好きになってしまう。そんな作品である。
この作品のほぼ全ての登場人物が自分の気持ちを声にして表現ができない。また人の気持ちを声として聞かずにいる。だから幸せそうに見えるひともどこか寂しさをかんじ、うまくいかないものはどんどん下り坂を下ってしまっているわけだ。
主人公の石田は小学6年生の時にヒロインの西宮が難聴である事を理由に虐めを繰り返し、補聴器をいくつも壊すなどしてしまいには大きな事件となってしまう。
小さい苛めの間は周囲の友達、担任の先生も見て見ぬふりをしたり、虐めに加担する者もいた。
ただ大きな事件となった後は掌を返すように今度は周囲が石田を虐めるようになり、以後高校3年生になるまで石田は周囲の声を聞くことをやめ心を閉ざすことになる。
この小学生時代のパートが僕は特に好きだった。この時点で年齢は子供とは言え既に自分の気持ちを声にすることをやめ、相手の気持ちを声にして聞くことをやめてるんだよね。
なぜ虐めをするのか周囲は問うこともない。だから虐められたら佐原は休むことで逃げ、西宮は謝ることで逃げた。
また上野や西宮は当時から石田のことが好きだったのではないかと思う。でも自分の気持ちを声にして伝えることはしない。だから虐められても笑顔で交わしたり、一緒になって虐めることで気持ちを保っていたのではないか。
この気持ちを声にしない弊害ってのを凄く的確に描写されていて心に染みる。
それから6年後の高校生パートでは石田は周囲と関わらないことで平穏を保っていたが、永束と出会うことで気持ちを声にする大切さ、喜びを感じ出す。
その結果西宮と友達になる事ができるが、川井や上野などとぶつかり悩む。その結果西宮が自殺を図り石田が怪我を負うわけだ。
この声にした事で壁にぶつかるのもまたいい。人の気持ちを声として知ることはもちろんいいことばかりではない。それによって悩み、苦しむことも沢山ある。
だけど最後は再び理解しあえて終わるわけだ。
この気持ちを声にする大切さはここであろう。声にする時はやはり相手の気持ちが自然とこもる。
例えその言葉は否定的な意味を持つ言葉だとしても、発した相手は果たして本心なのか、逆に発してる本人の方が苦しんでいる場合もある。
だからこそ人は助け合い分かち合えるのであろう。
そして同時に気持ちを声にすることは相手に伝えることだけではなく、自分自身に本心を伝えてることでもある。
頭や心の中だけの言葉は自分自身でもそれが本心なのか、正しいのかどうか分からないこともある。
声にし、相手の反応で気づけることも沢山あるだろう。
そして最後に今まで周囲の声を聞くことをやめていた石田が声を聞く。そして涙する。
やはり人は1人では生きていくのは苦しいのだろう。人の声を心で聞くことで人と人との繋がりを感じたのではないか。
ここで作品としては終わるが石田はこの後は充実した生活をようやく送れるのではないか。それは自分だけが幸せなのではなく、周囲も幸せにする事ができる生活に。
今はいろんなコミニュケーションの取り方がある。
声にする、いわゆる会話以外にもメールやSNSこれもまた立派なコミニュケーションツールの一つだ。
これらを否定するつもりは全くないが、改めて気持ちを言葉にし、それを声にして伝える大切さを心から感じる事ができる。そんな温かい作品だった。
染みる作品でした
感情移入してみていたらかなりボロボロ泣ける作品でした
まさかそこまでの話だと思って無かったのですが
障害、いじめや、自殺未遂、友達とは?
分かりやすいのと、現実で感じたことがあるような
作品の雰囲気
特に学生に見てほしい
私は学生の頃の気持ちで見ました。
なので大人でも見れる素敵な作品です。
160926劇場版『聲の形』感想。
2016年9月26日(月)、京都アニメーション制作の劇場版『聲の形』を劇場鑑賞す。今年の4月に本作上映予定の超朗報を受けてから今日のこの日まで、私の意識の片隅の深いところでは常に「『聲の形』が京アニによって劇場アニメ化される」ことへの嬉し涙が流れ続けていた。そして今日の鑑賞後の今の私は、心の底から嬉しさに悶え、許容しきれない満足感に心の痙攣を覚えている。
まず映画を観て涙を流させられてしまうことはめったにあることではないが今回は見事に喰らって貴重な体験をさせてもらった。だからといってこの映画を劇場や後のブルーレイなどで鑑賞することを他人に薦めるかと問われれば、間違いなく私はNOだ。他人に劇場版『聲の形』を薦めることで人格やセンスを疑われることを恐れるからといった理由とは全く逆で、これだけどツボに嵌って一生モノの宝石のような作品に出会えたという尊く大切過ぎる思い出は、最早自分だけの独り占めに留め切って何らの外部からの印象交換の交じり合いも許したくないという激烈な個人主義的衝動が圧倒して優先されてしまっているからだ。勘違いしていただきたくないのが、本稿はそもそもいわゆる映画評論の枠を踏襲したような虚しい分析の類ではなく、あくまで私個人の趣味、感性を記録するための独り言に過ぎない。従って独断の塊であり、他者との印象の共有やコミュニケーションの機会を図ろうなどと馬鹿げた意図は皆無であるからして、以下に述べるのは決して劇場版『聲の形』の他者への薦めを全く意図しない。もとい、本稿はそもそも未来の筆者自身以外の読者を想定しない。これだけの傑作に出会ったのなら、あとは気の向くままに書き殴って記憶を残すことに没頭するのみである。
まず私は原作漫画『聲の形』の大ファンだ。従って劇場版『聲の形』にバイアス抜きの視線を向けることは不可能だ。ところで、押井守をして「晩年習作の老害」と評されることがままあるが、私から言わせれば彼は自らのマニアックな思想哲学を、他人の褌を巧みに改変しまくって、本来噛み合う筈も無かろうものを見事に作品の形まで成立させてしまえる天才、というか面白い変人であって、更には京都アニメーションこそは、他人の褌で習作を作らせれば他の追随を許さない、むしろ晩年習作でいてくれたほうがいい技術集団だ。劇場版『聲の形』を鑑賞中、首尾一貫して初めて原作漫画に熱中した時に自分の中で起こっていた熱量の働きと極めて類似したものが湧き上がっていた。極力抑えられた劇伴の起伏の演出。淡々と平面的な画面構図で切り替わり続けるカットの数々。『聲の形』を映画技術で魅せようという意欲すらも、本原作への敬意や愛を優先させたいアニメ監督の立場からは邪魔でしかないといった風な割り切りがあったのではないかと思わされざるを得ないくらいの、原作漫画『聲の形』の見事過ぎる習作仕立てっぷりが、原作ファンの私にしてみれば只々ありがたいばかりで、これだけで泣けてしまえるくらいに嬉しかった。
ところで、これは劇場版『聲の形』から私が個人的に受けた作風とか形式とかいった次元に対する印象の話であって、勿論全7巻の連載形式の漫画を原作に映画化するにあたっては物語られ方にかなりの改変、省略、圧縮、そして丁寧な強調などの工夫は必然とあるべくしてあった。今思いつくだけでも、例えば真柴の将也に対する過剰世話焼き友情兼筋徹し理屈優先パンチとか、将也の母と硝子の母との涙ぐましい湧き合い合いのやりとりとか、結弦が過去に硝子から救われていた回想とか、植野のキス泥棒とか、最後の成人式とか、しかしやむなしにというよりは極めて冷静に、戦略的にバッサバッサと省略されるべきは省略されたといった風ではあった。しかし特に私が残念だったのは、植野の硝子に対する嫉妬がここぞと極めて不謹慎な間を縫って爆発するキス泥棒のシーンと、これに付随する植野が思い描く硝子の良い人ぶりっ子の奥に潜むどす黒いずる賢さのイメージ、しかしこれが実際原作者が、見方を変えれば硝子の本質ってそういうことでもあるんだよ的な、必ずしも読者の勘ぐりから否定し切れない、感慨深い描写の部分などまでが、劇場版で省略されてしまっていたことだ。こういったものは一貫して、映画の2時間強という尺で収めるために各登場人物の描写の掘り下げが簡略化されざるを得なかったためだし、特に植野の硝子に対する嫉妬の描写も含んだ、原作の後半から終盤にかけて熱量を増す恋愛描写の全般こそは、そもそも『聲の形』を限られた時間にまとめる際、この作品全体のテーマ性を、「いじめと向き合い償う犠牲含みの勇気試しの過酷さ」の一点に潔く絞りきる上で、不可避的に後ろに追いやるしかなかっただろうし、極めつけは、物語のおちというか、結び方を、原作の成人式で同窓生の沸き立つ空気の中に扉一枚隔てたところで将也と硝子とが、いじめの加害者側に立たざるを得なかった罪深き呪われた境遇と、聴覚障害との両者共に先天的障害というか運命に翻弄されざるを得ない不可抗力の部分といったハンディキャップを超克した先の話としての恋愛含みの、将来を見据えた信頼の確認を互いに取り合って先に進む・・・みたいなシーンに依らず、敢えて、自死を図った硝子を救って代わりに死に損なうまでした後の学園祭の場で、只時間が解決してくれる的な惰性の暮らしに頼らずに最短時間で償いを突破し切った、これによって最早過去のいじめっ子という自他共に拭い切れなかった呪われし烙印、この負い目の感情から解き放たれたかのような抽象的なイメージ描写によってなした部分などは、あぁ、飽くまで劇場版『聲の形』という企画は、恋愛要素を多少犠牲にしてでも原作企画の立ち上げ当初から多分に第一優先として念頭にあったであろう、「不可抗力的なイジメ問題に振り回されざるを得ない馬鹿な人間の呪われた贖罪に対し向き合う勇気ある精神とこれへの報い、救済」みたいなものに集中しましょうってな感じで、山田監督と原作者との間で周到に話が詰められたんだろうななどと、私をして激烈に勘ぐらしめた。そう、京都アニメーションは劇場版『聲の形』の物語の閉じ方を、硝子を外して将也一人の心象における救済を画面いっぱいに描写することに託したことによって、最早脚本、というか絵コンテ制作における商業主義を丸っきり捨て切ったのだ!私はここに京都アニメーションのオトコギを見た。漢だね。京都アニメは『聲の形』を映画化させるにあたって、上述のような極限的な習作手法を断行した結果、見事に見応えのある映画らしきアニメ映画を誕生させてしまった。これは最早原作付きの習作アニメなどではなく、立派に一つの映画作品であった。
さて、劇場版『聲の形』公開日の9月17日から10日弱の間、私はひたすらこのネタバレ情報の嵐から身を遠ざけることに必死だったが、そんななか聞こえてしまったものの一つに「『聲の形』は聴覚障害者をダシにしてイジメ加害者を癒すだけのゲスを極めた感動ポルノだ」というのがあった。「その理屈、嫌い」と言ってやりたい気分だ。イエスキリスト曰く「あなたがたのうちで全きにして罪を犯したことのない者が、この女に石を投げるがよい」。イジメ加害者を癒すだけの感動ポルノと『聲の形』を一蹴した気になれてしまっている輩は、そうとしかこの傑作の文学的なパワーを解釈できないほどに想像力が貧相なのか、まさか自分だけはイジメ加害者になってしまうような不可抗力的な呪われし運命の境遇とか空気によるがんじがらめとは一切無縁であったり、これに遭遇しても自分だけはビクともせずに勧善懲悪を身をもって体現できる強靭な精神力の持ち主だとか自信満々に驕れていたりするものなのだろうか、はぁ、愚か過ぎて哀れだ。記憶の遠いところでは誰しもが幼少期や学童期から、近くは社会人生活に及んでも尚イジメ問題が絶えない社会構造の欺瞞の中で、自らのお人よしでダサ過ぎるかもしれない勧善懲悪の良心との板挟みでストレスを積み重ね、多少なりとも苦しみ、恥じているものである。概ねそう有らざるを得ないというのが文明社会の、決して奇麗事だけでは済まされない闇の部分のひとつである筈だ。こういう足元の厳然たる現実と向き合うことを怠り、さも自分だけは清き聖人君子の如き、イジメとは無縁の潔白な人種だと言い張る輩を、そのまんまに投影し、作中で問答無用に論駁してしまうために川井みきというキャラの立ち位置が用意されていたりもするわけだ。彼女なりに、将也の転落事故を受けて化けの皮が剥がされても尚、この自分を過剰に可愛がってしまう天然さを通して、人間一個体の塩梅をひとつの交友関係に拡大して投影するなら、川井みきのような自己愛の尊厳の象徴も必然的に憎めない感触を伴うようになる(より詳しくは原作漫画の彼女を参照されたし)。そう、誰しもがイジメ問題に無縁足り得ない、足り得なかった自分に思い当たる節が大小様々にある訳で、こういった部分を激烈に向き合わせ、救済に導くような癒しのつくりになっているからこそ、『聲の形』は決して感動ポルノなどと非難されるような単純な駄作ではない、社会学的、文学的な意義を立派に有しているのだ。イジメの構造に巻き込まれたが最後、保身のために、集団に馴染み続けたいがために、あなたが絶対的に将也の学級の面々とは一線を画して、少なくとも佐原のように妥協の嘲笑いにすら組しないでいられるといった自信が持てるのか?正直筆者にだってそれは無理だ。しかしこれを限りなく可能に近い形にもっていく手段はある。つまり、自らの正義感とか良心とか思想信条を実際の生活や労働の場で貫くための手段とは、一つに財力、又一つに強靭な体力とこれによって初めて支えられ得る強靭な精神力とである。私は財力は丸っきり駄目なので、体力と精神力を日々鍛え、この目的のために備えている。財力的な余裕が足りなくとも、体力や精神力で余裕が持てれば、それでも少しはマシな人間として世間で振舞って行けるものである。
しかし究極に主人公の将也が救われた一番最初のきっかけを作ってくれていたのは他でもない彼の母ですよ。「母さん、情けないよ」と涙する時も階段上の息子と視線を合わせ続けた、本質的に息子を大切に想う母親の中の母親にして女の中の女!彼女の息子に対する日常的な愛情があったからこそ、将也は母親が補聴器の弁償代の札束を銀行から引き出す背中を見て自ら無自覚に引き起こした遊び感覚のイジメの本質的な罪悪を直感し、価値観の転換に及び得たのだ。将也がイジメ問題の渦中にあって自らを一般常識、良識に照らし合わせて客観視できるように自律的な成長を促せしめたのは、他でもない彼の母親の常日頃からの愛情や献身だったのだ。賢い女キャラの存在は、美談や傑作物語の必須条件である。実際の現実社会でも、愚かな女ばかりがのさばる組織や集団やコミュニティなんてものは例外なく目も当てられないほどに腐っている。しかしその逆は希望や意欲や活力が豊かに溢れていて、人の群れの幸不幸のムラや運命論的な不平等が生じる分岐点とはやはり社会を支える女の賢さの有無なんだろうなと痛感させられる。硝子の母親も負けず劣らず良い女だよ!
最後に、私は硝子が将也の母親に跪いてひたすら謝り続けるシーンで我知れず涙してしまった。あのシーンで受けた衝撃は最早理屈を超えていて、声優の演技が凄いとか原作の演出を超えたとか云々を捏ね繰り回す余裕など全く許されなかった。只々、私は劇場版『聲の形』の虜に成り果てていた。
劇場鑑賞直後の館内はすすり泣きの音で溢れかえっていた。345席+2車椅子席でほぼ満員の状況で、若いカップルよりも学校帰りの中学生や高校生の同性仲間グループの割合が多かったこともあったかもしれないが、素直に映画に泣かされた時って、大概人は「泣けたぁ」とか言わず、「良い話だった」とか「めっちゃ良かった!」とか照れ隠しにはしゃがざるを得ないようだった。こういう館内の雰囲気はいい、実に良い!そしてこういう雰囲気を醸成する映画はもっと良いに決まっている!私は『聲の形』を劇場鑑賞できて本当に良かったと心底嬉しく思った。ブルーレイ確実に買わせて頂く。
原作は未読で友人の家にてたまたま視聴。 表情一つ一つが綺麗だなぁと...
原作は未読で友人の家にてたまたま視聴。
表情一つ一つが綺麗だなぁと感じたが、めちゃくちゃにしんどい話ではあった。いじめや障害関係でよくない思いをしている方にとっては小学生時代はきついと思う。
ただ、ショウコのように加害者を許せるような人間もそうそういないし死ぬことを選ぼうとしてしまったショウコのほうが責められてしまうというのが中々納得はいかなかった。
石井はなんだかんだ恵まれてしまってると思うし、ショウコに対して(被害者に対して?)変な理想を抱きすぎなのではないかな〜とも思ったり。ショウコは健常者に対しての思いってのは違うし、うーん、優しすぎるんだろうなあとも思ったりもした。ショウコはもうちょっと他人を責めてもいい。
みんな思うことがあって色々考えてもやもやしているのが青春らしい映画だなあとは感じた。
先ずは
お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りいたしますとともに、お怪我をなされた皆様の一日も早い御回復をお祈りしています。
京都アニメーションのこれからがとても心配ですが、必ずまた素晴らしいアニメーションを届けて下さる事を信じています。
ここからレビューです。
冒頭の過去回想から既に目がウルウルでした(´・-・。)クスン小学生くらいなら、あんな感じですよね。
かなりリアリティに富んでいるので(勿論、イジメられていた子がいじめっ子を好きになるとか、暴力という手段のある男の子の場合はいじめっ子が突然イジメられっ子になるのは珍しいとは思いますが…)一度でもイジメにあった方にはかなり響くものがあるのではないかと思います。
その後はベタな展開に行くのかと思ったら、まさかのあのような展開が待ち受けているとは思いませんでした。
もう最初から最後まで涙で画面が見えないくらいでした。゚゚(´□`。)°゚。
映像も京都アニメーションらしい柔らかなものでしたし、キャラクターデザインも自分の好みでしたし、言う事無しでした╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !
Our heartsand thoughtsare with KyotoAnimation
絶賛まではいかないけど
面白かったけど、自殺はストーリー展開を安直にした感はあるかな。
硝子の場合はむしろ小学生のころの方が辛かっただろうし、石田にしても特に何があった訳でもないから、そこだけ拍子抜けした。
川井にはもうちょっときつい言葉を浴びせて欲しかった。
そもそもがなんだかなぁ
自分は映画しか見てないので背景的なところは知らないけど……
補聴器使ってもあんなに聞こえないのなら、なんでわざわざ健常者クラスなんだろう、というところから首を傾げてしまって。子供視点で描いているから余計に教師のダメさにも目が行ってしまう。
この二点で、イジメは起こるべくして起きているんじゃないだろうか?
大人に逆らえない子供が、子供らしく違和感と闘った結果だし、明らかな違和感と闘うための知識を大人が与えてないんだから。
そういう、大人のダメさに警鐘を鳴らす映画だというのならもう少し評価も上がるかも知れないが、ストーリーは飽くまで障害とイジメと子供達の友情について。
爽快感もなく、大人は全く関係ない風で被害者の子供がどうにか、なぁなぁに収めるだけ、って。
子供達は唯一ユヅルがイイコだったかな。ウエノも自分の悪いところ、いけないところを正しく把握していて、それを正せないことを開き直っている分まともだっただろうか。
世の中、子供の障害を認めたくないために無理矢理普通学級に子供をいれさせようとする親が多いという話は聞くが、補聴器を与えているところを見るとショウコの母親はそういった親ではないように思うのだが……。
なんにしろ、ストーリーの根幹の部分で一番悪いのが子供をフォローすべきクソ眼鏡とショウコの母親であり、その二人に何のおとがめもないまま後ろ向きな主人公二人視点で話が進み、イジメがあっても謝れば仲良くなれる、なんて子供の苦痛を無視した理想で話をまとめた上になぁなぁな物語が、なぜこんなに世の中で高評価なのか、理解できない自分がたぶん一般的ではないのだろう。
見たいというより見ないといけないお話
ありそうなお話だなあ、という印象です。
みたい!おもしろい!というより、見ないといけないお話かな、と。
ラストもそことそこがくっつくか!となりました。
単純な恋愛ものなら、主人公の2人がくっついてただろうなあ、と思います。
shape of voice
小学生の男子は気になる子に意地悪をする。
そんな簡単な話が。
虐めるつもりはなかったのに。
イジメになって。
自分に跳ね返って。
そんな自分を変えたいと思っても簡単じゃなくて。
そんな青春の過程、成長をすごくうまく描いてると思う。
号泣してしまった。
青い春。
うまく描きすぎの感もあるけど。
まるっといい映画でした!
素敵な映画
ネタバレ注意です。
私もいじめられたことがあり共感の涙尽くしでした。
人は変われるしキャラクターも素敵で、
個性のぶつかり合い、集団のいじめ、辛い過去と今の自分。色んなことがぶつかりすぎて共感とともに涙とたまに出るネタで笑いあり涙あり、素敵でした。
この映画に出会えて良かったですヽ(*´∀`)ノ
映画からですが原作も読んでみようと思います🙂
何より可愛い子とか好きな人なら見て欲しいです。
ゆづちゃんが可愛いですよ!!(つω`*)
上手くカットして作品全体のバランスを整えている
原作が傑作すぎてあまり期待してませんでしたが、見事な出来でした。
表情や風景があれほどまでに仕上げられてるとは思わず、気がつけば観入っていました。
尺の都合との闘いが随所に感じられました。
いじめに関するところは原作よりソフトに(あれでもソフトなんですよ!)表現することで、作品全体のバランスは取れていたように感じます。
事が起きるまで、起きてからの微妙な描写は、原作では完璧に表現できていましたが、映画では所々やむを得ず短縮されてました。葬式のシーンとかは、全部入れるか全部入れないかにしてしまった方が良かったかも。
そこを差し引いても、初見でも十分理解できる仕上がりになっています。
意思疎通の手段
口語、文語、表情、身振り手振り、接触…。
その全てを駆使できる人。
幾つかの手段に限られる人。
一部の手段は苦手な人。
話したくても上手く話せない、聴こえない硝子。
周りからの信号を受信しないよう情報を遮断している高校生の将也。
学校は幾つになっても楽な場所ではなかったなぁと振り返ると、ほとんどの子供は幼い頃から、高密度な人間模様の世界に放り込まれる訳で、自分の意思をどう表現するか、相手の意思をどう汲み取るか、結構過酷なトレーニングの繰り返しだと思いました。
大人になっても誤解を生まないよう神経すり減らしますね。
石田家も西宮家も、お父さんの姿が見当たりませんでした。
原作に深い事情が記されているようですが。
現実においては、家庭内不和や虐待によるストレスの反動でいじめに走る子供もいるので、意思疎通の障害だけが原因とは限らないのかと。とにかく劇中の先生達のやり方はかなりマズイ。
川井さん系は、強者も足元からひっくり返せるタイプで一番恐ろしい(^_^;)。上手く立ち回って難を逃れて生きてこれたから、自分は善人だと心酔しているし大人になっても変わらない人が多い。だからと言って川井さんが酷い目に遭えば良いという話でもない。周りの嗅覚が研ぎ澄まされてくると、段々みんなこういう人には近寄らなくなる。
辛いけれど、痛みを経験して知ること、挫折感を味わうこと、自己の罪悪感に苛まれること、償うことは、より良い人間になるために必要なこと…。
顔にバッテンを付ける表現が良かったです。
石田ママの寛大さとブロッコリーみたいな永束君がナイスでした。西宮ママはいくらなんでも暴力が…。
登場人物がみんな同じ顔に見えるなんてこともなく、分かりやすかったです。ただ、随分小柄に描かれている結絃の年齢が、最後の方まで想像がつきませんでした。
漢字の苦手な自分は何故か聲をずっと蟹と読んでいました…。そんな失礼は許されないほど、人物描写が秀逸で非常によく出来た作品でした。
「君に 生きるのを手伝ってほしい」
『罪悪感』
★なぜここまでの罪悪感
原作は知らないが..父親はいない母親はいそがしい.満たされない心.不満足があるなら理解できるかもしれない。
信頼できるものがなく.自己肯定力が弱く.他人の評価がすべてだったのかもしれない。だから他人からソッポむかれたとき.すごい孤独を感じたのだろう。
将也も硝子も..
似た者同士なのかもしれない
聲の形
ちょっと泣いた。
主人公は陰キャラ且つ陽キャラ。ゆえに誰もが共感しえる物語なのかなって思った。
ショーコ可愛い。みんながみんなが過去に後悔しつつも今を生きてるんだなって感じた。
今後の主人公がどう生きてくかを観たいな。
自分の力で変えていくしか方法は無い。
Eテレでの放送を鑑賞。
原作は未読です。
主人公は、肉体的にも精神的にも微妙な時期に起きた一連の出来事から人間不信に…。因果応報であり、自分の蒔いた種の結果であると肯定しながら、他者との関わりを絶ってしまいました。自殺寸前まで来てしまいますが、ひょんなことから彼の日常に変化が訪れ、物語は加速し始めました…
想いの解釈や斟酌をしながら人間関係という大海原を進んでいかなくてはいけない社会において、不器用故にもがきながら悶えながら生きていくことの、なんと危うげなことか…
他者との関わりを絶つことは不可能だし、周囲の変化を望まなくても否応無しに状況は刻一刻と変化します。しかし、自分の中の大本は、勝手には変わってくれないな、と…
根本を変えるなら、そのことをちゃんと伝えなければ始まらない。そして、自ら動くこと。待っているだけではだめで、自分自身の力で変えていくしか方法は無いと思いました。
硝子のような社会的弱者との関係は、なんらかの波乱を呼んでしまうだろうことは避けられない。デリケートな問題ですし、世間的にも構えてしまうことだろうと思います。
ろう者を取り巻く現状(これが全てだとは思いませんが)を映し出すことで、家族がどのような想いで暮らしているのかと云う面にまで踏み込んでいて、考えさせられました。
理解出来ないことへの苦しみがもたらす悲劇を乗り越えるためには、そのことに寄り添い、考えながら行動していくしかないのではないかな、と思いました。
※以降の鑑賞記録
2020/07/31:金曜ロードSHOW!
※修正(2022/12/22)
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