「とても美しい映画でした。 絵も映像表現も音楽も声も物語も。 傷つき...」映画 聲の形 mary.poppinsさんの映画レビュー(感想・評価)
とても美しい映画でした。 絵も映像表現も音楽も声も物語も。 傷つき...
とても美しい映画でした。 絵も映像表現も音楽も声も物語も。
傷つきやすく脆い痛々しい感情や、もどかしい迷いを丁寧に描いてる。
「周りがみんな他人に見える孤独」「他人の顔を直視できない、向かい合えない、閉ざした心、みじめな劣等感」たくさんの感情をこめて、「X」で顔が見えないというシンプルな映像で表現する、アニメでしか表現できない表現が見事。
ラストシーンの表現はすごく感動した! 主人公と一緒になって泣いてしまった。同じ光景を見ている、と共感できた。まるで世界に祝福されているような幸せ感が、身近な何気ない光景の中でリアルに伝わってきた。
この「X」の場面をはじめとして、言葉では一言も説明せずに、映像だけで感覚的に、かつ鮮やかにわかりやすく表現する場面が多くあり、そこにはとても静かな、まるで水の中の無音空間のような、自分の心臓の鼓動だけがかすかにきこえるような感覚の、不思議な音楽が流れている。
まるで、耳のきこえない少女の感じる世界と、身体的には障害なんて無くても 心に障害を背負っているかのような生きづらさを抱える 登場人物たち(そして私たち)の感覚がリンクしていくような気がする。
(京都アニメーションの表現は本当に素晴らしい!!✨)
とても、感動した。
それでも批判する人もいるように、確かに、完璧な感動作品だ!とすべてを絶賛できるとは限らない。
やっぱり、自分をあんなに酷くいじめていた人達を、あんな風に「友達になりたい」「会えて嬉しい」「好き」なんて、私なら思えない。硝子は純粋すぎて、心が綺麗すぎる。天使かと思えるほど愛らしくて、ちょっと現実味を感じないほどのヒロインだ。
硝子のように、「自分にちょっかいをかけてくる(実際は酷いいじめだが)=自分に興味をもって構っている → お互いの気持ちが伝われば、つながれる、友達になれる」と思い、そう信じることができるのは、すごい。硝子は儚げに見えても、本当はとても強い心をもっている。
(しょうこと読む名にも色々な漢字があるけれど、この少女は硝子、ガラスだ。 儚げですきとおって光りを映してキラキラと輝くけれど、脆くて、傷つきやすく壊れやすい。壊れてしまうと、他人をも傷つけてしまう。 現実には人名に硝子と付けることはないが、この少女のイメージにぴったりだ。)
現実の世界なら、あんな酷いいじめを受けたら、笑顔なんか失くしてしまい、どんなに可愛らしい子どもだって、表情は暗くなり 可愛く見えなくなってしまう。本当はとても可愛らしい子なのに 落ち込んでいるせいで可愛く見えない(いわゆるブスに見えてしまう、いや、ブスにされてしまう)子は、現実にいくらでもいる。(大人から見たらみんな可愛く見えても、子どもは子ども同士ではシビアだ。理想的な容姿でない人はみな簡単にブスというレッテルを貼られてしまう。)
そして、主人公の少年がいつまでも彼女のことを忘れられずにいるだけでなく 何度も勇気を出してつながろうとしたのは、良心の呵責と贖罪の想いだけではなく、彼女があれほどの美少女だったからだと感じてしまう。現実の、いじめられて暗い表情をしている少女だったなら、贖罪したい気持ちは起きても、つながりたい 友達になりたい 今度は自分が守りたいとまで、あんなに強く思うだろうか、と感じてしまう。
そんな違和感はあれど、批判なんて思わない。しょう子のようにポジティブに他人を(むしろ敵さえも)「友達になりたい」と受け入れる強さ、純粋さは、レアケースではあっても、あり得ないわけではない。重い障害をもつ人が「この人達は、自分を障碍者だからと遠慮して敬遠するのではなく、対等感と興味をもって近づいてきた」と嬉しく感じることも、あるのだろう。障碍者とひとくくりにしがちな私達と同じように、人それぞれみな違う感じ方や性格をもっているのだから。
そういうことも含めて、すれ違う人達の心を、みにくさも目をそらさずに描き、繊細に表現した素晴らしい作品だと思う。登場人物はみな未熟で 自分を守るのに必死で、傷つけあうけれど、本当の悪人は誰もいない。
(しかし、序盤の、担任教師の描き方は不満だ。数多くの作品にあのような教師が出てくるが、現実にはレアケースだ。あんな酷い教師は普通いない。いじめに遭った経験のある子どもが、記憶の中で 美化の逆に醜悪化して、極悪な印象に変えてしまっていることが多いのだろう。)
余談ではあるが、この作品の力を信じ、その影響力に願いを託して、これまでにTVが放送したことにも、とても特別感を感じる。NHKが、夏休み最終日(統計上、未成年・学生の自殺率が年間で一番多い日付。つまり、生活の変化に対応できず不安や憂鬱に駆られてしまう子どもが年間で一番多い日付)に放送したこと。そして2020年は、夏休み直前(翌日から夏休みになる学校が多い、今年は7月31日)に日テレが放送したこと。(コロナ禍のオンライン授業が増えたことで、これまで不登校だった子達がオンラインで出席するようになり、その後、通常登校が始まると彼らも普通に登校できるようになったという事例がたくさん報告された。 せっかく笑顔で通えるようになった学校が夏休みになってしまい、生活スタイルの変化で、また不安や憂鬱に駆られてしまわないか、それを事前に防ぎたくて、子ども達を勇気づけるために放送する意図もあったのでは。 だって、京アニの新作映画ヴァイオレットの宣伝が狙いなら、映画公開日が近づくもっと後の日付のほうが効果的だろう。)
この映画は、多くの「オトナたち」の心の琴線をも揺らし、希望を見せてくれたのだろう。
bloodtrailさんコメントありがとうございます、なるほど~。
洋画のタイトルとか特に気にしてなかったですが、本のタイトルも翻訳に特徴を感じました。お国柄とか出るのでしょうか。 欧米の作品は 主人公の名前そのままのシンプルなタイトルが多く、日本のは作品全体の雰囲気を表現した やや抽象的だったり詩的だったりなタイトルが多い気がします。主人公の名を使わない場合でも、欧米は直接的な(ある意味ネタバレ的な)名付け方が多いような。ぱっと思い出した本では、日本の小説を翻訳して『夏の庭』→『the friends』 では、ただのくされ縁の同級生と 近所の他人だった存在が、かけがえのない存在にかわっていく過程を丁寧に書いてるのに、最初から「これは友情の話ですよー」って大声で言ってるのはどうなのかなと思うし(笑) 『ポプラの秋』→『Letters』では、後半から手紙が重要になって 最後は感動のどんでん返しの鍵になるのに、最初っからキーワードに注目させちゃうんかい!って思います笑 逆に海外小説を日本語に翻訳しても、ただの人名(正体は天使)のタイトル→『肩甲骨は翼のなごり』、『baby』→『潮風の贈り物』、『little women』→『若草物語』など、直接でなく詩的に作品全体の空気感やテーマを想像させるタイトルが多いと思います。
mary.poppinsさんへ
コメント、有難うございました!ざっくりですが回答&見解を返信します!
まず、「原作者の意図はmary.poppinsの見解の通りだと思います」
で、おそらく、後付けされた"英語タイトル"と、"海外版のタイトル"は、映画内容のハイライトである、あの場面を強調する意図で、定冠詞(英語タイトル)&不定冠詞(海外版)を用いたのだと思いました。「手話」と言うコミュニケーションの手段全般は、不可算名詞的と解釈できるため、不定冠詞も不要と考えられるからです。
自殺をしようとした二人が「生きよう」と約束する場面。こういう、一番伝えたいピンポイントのワンカット・ワンシーンを「現地タイトル化する」例は結構あるんで、「これだ」と思ったんですよね
2019日本公開の洋画作品の例で言うと。「あなたの名前を呼べたなら」の原題は「Sir」ですが、邦題はラストの一瞬を切り取ってタイトル化しています。「家に帰ろう」の原題”El ultimo traje”の和訳は「最後のスーツ」。「家にかえろう」と言う邦題も、ラスト・ワンカットをそのままタイトルにしてます。
という事で、原作を知らず、普段はアニメを見ることもなく、映画ばっかり見てる者の解釈と思って下さいw