「尺足らず」映画 聲の形 totteさんの映画レビュー(感想・評価)
尺足らず
原作読まずに映画館へ。「なんかしっくり来ない」「登場人物達誰にも感情移入しずらい」とモヤモヤした。帰ってWikipediaを見たところ、「そうか、こういう意味だったんだ」「それぞれのキャラには、こういった背景があったのか」とようやく気付くことができた。
原作読んでない組ですら、尺が足りないことが伝わってくる内容だった。前編後編にわけるのも難しいだろうし、映画でなくて1クールのアニメでやるべきだったんじゃないかなー、と。
カメラの子がひたすらかわいいのが救いだった。
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2回目(9/23川崎チネ)で、3.5→4.5点へ修正。
修正した理由は「良かったから」とか「感動したから」ではなく、「考えさせられた」。
西宮母が「あの子(石田)と関わるのはもう辞めなさい」と釘を差したとき、ゆづるが「それはねーちゃんが決めることだ。オレも自分で決める」と呟いた。普通、ひどいことをされたとき、被害者の身内や友達は一緒になって怒るものだ。が、この物語では、被害者自身が加害者を許してしまった。そのとき周囲はどう対応するのが良いのか?という視点で映画を見ていくと、それぞれのキャラごとに見解がはっきり見えてくる。この作品の一つの問いかけだと思えた。
ゆづるが「自分で決める」のに対し、対照的だったのが植野。植野は、6-2がバラバラになり石田がイジメられたきっかけが西宮にあると考えている。そこに追い打ちをかけるように石田が死にかけた。すると石田がどうであれ西宮を許さないスタンスを取った。
高校編では、真柴は昔石田がイジメてたことを知ると許さないスタンスを取った。対する長束は「やーしょーが昔どうであれ友達だ」と言った。これに対し、石田は「部外者は口を挟むな」「昔の俺を知らないくせに」と拗ねた。
綺麗事を言えば、ゆづるの「自分で決める」のが理想だとわかる。しかし、心情的には自分の大切な人が傷つけられたとき、たとえ本人が許しても周囲が許せないことはよくあることだ。最近のネットの揉め事でも、当事者達は和解しているのに周囲が怒ってアンチとして暴れているのを見かける。そうした加熱に対してちょっと待った、とストップをかけてくれるのがこの映画になって欲しい