タルロのレビュー・感想・評価
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鈍で純な男がさもありなんな落とし穴に落ちます
チベットの辺境で、近代化の波に乗ることなく暮らしていた牧畜の民の男が、町に出る必要があって行ってみたら、性質の悪い女に引っかかる。いかにも田舎者が陥りがちな落とし穴の物語だ。
もちろんペマ・ツェテン監督は、現代中国の姿と失われゆくチベット文化の写し絵として描いているのだが、基本的には悲劇なのに、タルロという主人公がマヌケでありつつも聖人のようでもあり、かなりの愛されキャラとして成立しているので、ついコメディのように思ってしまう。コメディにしては毒があって辛辣だが、白黒の美しい映像もあいまって、おとぎ話のような滑稽話として楽しんでしまった。自分にとっては秀逸なブラックコメディでした。
チベットの純朴な暮らしと、現代化で消えゆくもの
チベット映画には、最後に「死」など重く暗く終わるのが多いように感じたが
それはチベット人の魂の叫びか? しかし色々勉強になった
・チベットの伝統的な暮らし ⇒ 大自然に寄り添い暮らす
・羊を解体して内臓を取り出す現場が映っている⇒ 今の人はできないだろう
・毛沢東語録の暗唱が必須であった世代があった事 ⇒ チベットが中国に征服された実感した
美女に騙される⇒ 身の丈をわきまえよ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(以下、チベットネタの世間話)
↑これで思い出したのが、「チベット仏教勉強中」というエロ尼僧の話だ。
数年前、北区臨済宗塔頭の不自由な老僧に、何度断られても懇願して
「修行」名目で寺に寝泊まりした。 が、すぐに
「修行」も
「寺の仕事」もしなくなって、外出ばかりになった。
和尚は出ていくように言ったが、チベット尼僧は無視し
本気の修行者でも数か月滞在が通常の所、その後も「無賃宿泊」の「不法滞在」を続け
挙句に
●老僧の食べ物を、冷蔵庫から盗み食い (窃盗)
●老僧へのお歳暮を、隣近所の寺へ、自分からの贈答品と言って、賄賂に渡す(横領)
も平気で行っていたと、和尚と、その御尊姉君が証言。
その寺には、京大の茶道部が内々に稽古に来ていたが
彼女はそれを見て、京大へ潜り込む事を考え、京大の宗教分野へ潜り込み
老僧が在家弟子に命じて、法的手段により追い出すと
留学生を利用し、学生の為の激安寮に住み込んだ。
老僧が生前、『やつはずる賢いから騙されるな!』と、いつも言っていた。
彼女は、数年間もの「盗み食い・無銭宿泊」の犯罪行為にも関わらず
「かわいそうな私」を演出して出ていった。
こういうやり方は、プロの工作員だ。
だから、日本を内部崩壊させるため、日本の重要な宗教に送り込んだ刺客とも考えられ
「チベット仏教」とは、なんと黒いのだろう と思っていた。
しかし黒いのは
「ダライラマの側近だった」とか、使える嘘は全部使い
高野山など宿坊にも潜り込む。 それが
チベット仏教を勉強中、とするokazaki初老の尼僧だ。
いや、尼僧が本当かどうかもわからない。
生き残るために京大のタイトルが欲しいか、スパイに入っているのだろう。
チベット仏教界が黒いかは解からないが
チベットの7映画は、ほぼ素晴らしかった。 ここからわかることは
チベット伝統生活の民は、敬虔な信仰心や良心を持ち、助け合う、「清らかで強い民」だ。
チベットと、仏教の名を踏み台にして様々な所に潜り込む、忌むべき存在を思い出した。
チベットが正しく認識されますように。
『ラサへの歩き方』は、ちびっこの皆に見てほしい。
覚醒体験できる。
辛さ厳しさが力強く─
シンプルで動きが極めて少ないために、その本質を捉えるまで集中するのは難しいかもしれません。作品の意図が分かったところでそれが良いか悪いか、それもかなり難しい・・・何せ厳しいところが際立つし、中国の事柄が深く関わってくるし─。
個人的には、歌や音響の用い方に面白みを感じてぐいぐいと引き込まれていったけれど・・・まぁ難しい作品です、ストーリーはシンプルで単純明快だけど。
差別的、搾取、色恋、シンプルでありながらも、色んな事柄を考えさせられました、独特な映像と音楽とともに。そういった意味ではすごい作品なのかもしれませんが、あんまり好みじゃなかったという印象です。
泰山より重く、鴻毛よりも軽い
本人にとって、毛沢東の演説を諳んじることも、男として風変わりな髪型の三つ編みも、おそらく自慢だったのだろう。従順に羊飼いの仕事に従事することさえも、自分は善人だと自負していた節もある。
しかし、世間では彼をどう見ていたのだろう?
記憶力がいいじゃないかと持て囃しながらもそんなの覚えてなんの益があるんだと笑っていたんじゃないか?
お前は羊の面倒だけしっかりと見てりゃいいんだよと小馬鹿にしてたんじゃないか?
だいたい、心を許してくれたと思ってた相手でさえ、大金を手にした途端さっさと姿を消してしまったじゃないか。
結局、謙虚で慎ましいように見えた男でさえ、どこかに認めてもらいたい承認欲求が潜んでいた。周りは、そんな男の思惑ほどには認めていなかったのだよ。だからご覧よ、髪を切ったら誰だかわからないじゃないか。自分のチャームポイント、トレードマークだと思っていたものが、他人と区別するためだけの単なるアイコンでしかなかった。そう、自分の本名でさえすっかり軽い存在なのだ。これは、名前(あだ名)も、金も、髪も失った男の悲劇だ。"泰山より重く、鴻毛よりも軽い"のは、人間の命を語る前に、その人間の存在感だった。
街の騒音
これでもかというくらい、街の騒音をじゃんじゃん流す作品である。
音として、俗っぽいテレビやラジオの歌がガンガン鳴り、一方でモノクロームの映像には、動きの乏しい人物が、“長回し”で捉えられる。
床屋のシーンでは、“鏡に映った姿”を効果的に使う。
動(音)と静(映像)のコントラストが強烈だ。
一方、“三つ編み”タルロが山に帰れば、世の中から隔絶された羊飼いの世界がある。
タルロも100頭ほど羊を持っていて、決して貧農ではないのだが、大部分は他人から預かっている羊だ。雇われて暮らす身の上である。
山には、家畜やオオカミ(?)の鳴き声や爆竹の音しかなく、夜になれば真っ暗だ。
動(街)と静(山)のコントラストが強烈だ。
そういう映像音響上の仕掛けや、ユーモアのある演出と比べて、ストーリーそのものは、あまりにも“ベタ”で面白いとは言えない。
ストーリーや色彩など、単純化できるところは単純化して、タルロを通じてチベットの現在とその悲哀や困惑を、象徴的に描こうとしているのかもしれない。
記憶力が自慢のタルロは、「泰山鴻毛」の「毛沢東語録」を滔々と暗唱するのだが、別に毛沢東主義派なのではなく、文革世代は「語録」の暗記を強制されたという。タルロは、時代遅れの人物なのだ。
そして、山では何も不自由がないが、「お前が誰か証明するため」に「身分証」を作れと警察に命じられて、街に行かされる。自分の本名を言うことさえ、久しぶりすぎて、笑ってしまうくらいなのに。
タルロは、チベット伝統の価値観に殉じて生活しているわけではない。
小学校を出て以来、山の羊飼いしかやってこなかったため、時代と環境が変化して、いつのまにか“異邦人”になってしまったのだ。
そういう素朴な男が、床屋の女に「釣りは要らない」と、柄(がら)にもなく格好をつけたのが運の尽きで、転がり落ちるように、街の騒音に飲み込まれていく・・・。
上記の一連の展開は、中国当局を痛烈に揶揄していると考えられ、よく検閲を通ったなあと思う。
当局に従順な人物を描き出すことで、逆説的に、当局を皮肉っている。
ペマ・ツェテン監督の作戦勝ちであろうか。あるいは、中国当局が鈍感なのか。
タルロの3種類のヘアスタイルが、その時々のタルロの境遇を的確に象徴しているところは、実に見事だ。
「東京フィルメックスでグランプリ」がどういう意味合いだったのか知らないが、味のある佳作である。
自分の存在じゃ十分じゃないの?
チベット映画
2015年に『タルロ』 (Tharlo)」中国ペマツェテン (Pema Tseden) 監督
羊飼いで町の生活を知らないの純情な40代の独り住まいの男性タルロが、若い理髪師の女性に惚れ、自分の稼いだ全ての財産を彼女にあげたが、彼女は夜中こっそりもちにげしてしまった。???
いやいや、監督の言いたいことは他になにかある。
身分証明書を持っていなかったタルロの言葉で、(警察に行って身分証明書を取るとき):印象的なのは
『自分が誰だかしってるよ。
それじゃあ、十分じゃないの?』
現代のID, IDの世界、自分の存在より、そのIDの方の存在が大きい。
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