「「木村拓哉」がいない。冒頭から「万次」を観ていました。」無限の住人 まる🖇🍓さんの映画レビュー(感想・評価)
「木村拓哉」がいない。冒頭から「万次」を観ていました。
「木村拓哉」がいない。冒頭から「万次」を観ていました。
ゆえにエンドロールを観た時のなんともいえないこみ上げる気持ちがあったのかと思います。木村拓哉という俳優が、万次に徹する直向きさが「無限の住人」を成立させています。
映画を観るときはストーリーを追うより映像美を探すほうが好みですが、ほぅと魅了されたのがモノクロのシーンのラスト、画面右の万次と惨劇のその後です。
このシーンを監督は撮りたかったのだと感じました。
残酷?壮絶?などの言葉とはなにか異なる、「事の顛末の哀」を感じさせる一枚の絵でした。
荒ぶるなかの哀しみはみたことがある気がしますが、この絵はそっと荒ぶるものが隠れているような哀しさを示していました。
おそらく海外の方には印象的な絵かと思います。
(またこの黒く「無」が蠢くシーンは「13人の刺客」でも感じたものです。)
凛と出会いストーリーが展開していくとこは日本の漫画的なスピードがあります。
漫画が原作で良かったと感じています。小説的なものだともう少し大人しく進んでしまうかもしれませんので。
黒衣鯖人、凶載斗と次々に戦うなかで、ふと善悪に疑問が沸きました。
凶載斗には凶載斗の理由もあるからです。
そしてその疑問は、槇絵との戦いのなかでさらに深まりました。
万次の敵は残虐、無慈悲な殺人集団ではないからです。
この道理は万次が凛に出会ったときの会話にも集約されているのかもしれません。
万次は決して強くありません。え?ってくらいボコボコにされます。
これがヒューマン映画なら「愛のためにどんどん強くなる」などのストーリーが付与されるのでしょうが、徹底して万次は万次でい続けるのです。
あたかもそれが「無限の命」とも心情は近く、永続的世捨て人な万次が「じゃあ殺してくるわ」のごとくあっさりとした心持なのです。
ただ万次は斬られ、悶え苦しみます。山の中で暮らした野犬のように、吠え、食し、酒をかっくらい、泥だらけでも全く意に介せず。
そこにはやはり「めんどくせえ、生きるということ」が強く存在するのです。
中盤での永空との出会い(敢えて「出会い」)では「生きている」「誰かに生かされていること」の受け止め方をすっと観客も斬られてゆきます。
ただこのシーンは演者の気迫のぶつかり合いが凄まじく、観客にそこまで心の余裕を持たせてくれません。
ドカンと「不条理の悲しみ」「不条理の意味」をぶつけられてしまいます。
気がついたら涙が出たシーンですが、その意味は誰が可哀そうとかだけではないのだと思いました。
あ、忘れていました。これ「木村拓哉」が演じているんですね。
でも忘れてしまうんですよ。
そこには凛の本気を万次にぶつけまくるシーンが幾度とあるために、さらに「凛のための万次」になってしまうのだと思います。
凛の心にあるそのままが言葉になってぶつかってくるのですが、万次との絡みはクスッと笑いました。
だって、あの世捨て人の汚いおじさん万次さんに、ほとばしる熱いパトスをぶつけてもね(笑)
さて、それぞれ万次の斬らねばならない相手には哀(愛)があるのですが、ちょっと許せねぇって敵も現れます。
シラです。
でも悪人が最高の悪でないと、万次の覚醒はないのです。
「13人の刺客」でも三池監督が描く「悪人」は想像の遥か上の「悪」です。
しかし、生きていること、愛を寄せること、許せないこと、許さないこと、そして人間が生きる上にある善と悪の境目は、
悲しいけれど争いの中でしか覚醒されないもの、自分の行いを良しとする理由は見つからないのが、人の性なのかもしれません。
後半には前述でも出た「監督がどうしても撮りたかったと思われるシーン」がバシバシ決まります。声をあげたいシーンも多くありました。
他の観客のかたも前のめりになったシーンではないでしょうか。
そこはエンターテイメントでもあるんですが、随所には根底にはアングラっぽさを感じました。
(「あさま山荘事件」を観たときに似ている何か見てはいけないものを見てしまった、人間の性のような不穏なものです)
長まわしのなか観客はともに歯をくいしばる時間のなかで天津は「悪なのか?」「悪ならば殺せばそれは善か?」と心が揺れました。
それは槇絵のセリフは少ないものの、そこに「愛」が対峙するからかもしれません。
しかしまたこれ三池映画に答えらしいヒューマニズムなシーンがあるわけないのです。
そういった問いも答えもない中でも観客として答えを待っていた気がします。
個人として良作というのは「帰り道ひとりで考えたい」と思う映画です。
夜に観に行って良かったと思いました。薄暗い河原を自転車で走りながら、「天津は・・・蒔絵は・・・永空は・・・凛は・・・万次ならば・・・」とまだまだ悩むことができます。
そしてもう一度、「それでいいのか?」と確かめたい気持ちが沸いてきて、再び万次に問いに行きたいと映画館に通いました。