「決して単なる殺陣を見せる為の映画ではない」無限の住人 にゃもさんの映画レビュー(感想・評価)
決して単なる殺陣を見せる為の映画ではない
この映画は決して“ストーリーは後回しのただかっこいいだけの映画”などではないと思いました。モノクロのシーン、1人の相手(万次)を数え切れない位の集団で殺そうとする大量の胸くそ賞金稼ぎに町を人質にとられても万次が逃げなかったのは、例えば“町は万次の愛する妹だから”だけでも説明は通るのかもしれませんが、しかし町を万次の目の前で切り殺した胸くそ賞金稼ぎと半ば相打ちになった万次が、八尾比丘尼に自分の事も殺してくれるよう頼んだのは、“正義感から誤って町の夫を切り殺してしまい、町のこころも壊してしまい、そして賞金首になった自分は、更に胸くそ賞金稼ぎから町を守れなかっただけでなく、その町の殺され方が、自分の目の前で切り殺されるというものだった為に、自分の罪滅ぼし(の方法)が、町を守る事から、自分も死ぬ事に変わったから”で、万次が根底に抱えているものは、明らかに血仙蟲の体になる前からこの罪滅ぼし感情なのであって、書き置きを残して消えた凛を追っている万次が3人の逸刀流剣士に同時に切りかかられた時(つまり逸刀流のルールは既に破られている)、腕の再生が間に合うか間に合わないかを分けたものも、凛の書き置きを読む前の町の墓前での「もうすぐそっちに行けそうだ..。・・なんてな」という万次のこころの揺れ動き→のちの決意の事も考えれば、“血仙殺があったお陰でやっと死ねる..”では罪滅ぼしにはならず、自分の罪滅ぼしは、“凛の最初の願い(書き置きの「これからは万次さんは私ではなく他の人を・・」ではない、父を殺し、母を“集団で”なぐさみものにした逸刀流という敵を討ってほしいという願い)を叶える事だ”という決意の有無にこそあったのだと思います。
こう考えれば、“用心棒(※「護衛の為に身辺につけておく従者」広辞苑より)である筈なのに同時にこちら側から積極的に討ちに行ってもいる”理由も解ってきますし、凛に町を重ねた万次は、もしかしたら凛に“今度こそ町を守り抜く”というかたちの罪滅ぼしの可能性を感じ取ったのと同時に、“善人を誤って切り殺してしまい、敵として討たれるべき側でありながら、血仙蟲の体の為に死ぬ事も叶わずにいた自分”を、“敵を討つ側に”、つまり“より町の側に”立たせてくれ、更には“もう誤った殺しはしない、悪人だけを切るような、より純粋なものに”自分を変えてくれるかもしれない何かも感じ取っていたのかもしれないと思いました。ですから私は、数え切れない位の集団に囲まれた天津をかばう凛に対する万次のせりふ(「俺は誰を切ればいい?」→「それで良いんだよ!」)にも、ただ爽快なだけじゃない深みを同時に感じました。おそらく万次にとっては、“集団で誰か1人をいたぶったりする事などのおかしさを訴える凛”の立場に立ち、凛の存在に自分を重ね近づけて行っている時こそが、自分も純粋な存在になれる事を最も感じられている時なのではないでしょうか。