「この作品をともに観たあなたへ」タレンタイム 優しい歌 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
この作品をともに観たあなたへ
映画は、遠い南国に暮らすいくつかの家族の描写から始まります。人々の顔だちや、彼らが着るもの、住む家はどれも、この列島に生まれ育った私たちには見馴れないので、すぐに感情移入することが難しかったのではないでしょうか。
ドビュッシーのピアノ曲が静かに流れる冒頭の学校は、ある時期の台湾の映画監督の作品を思い起こさせます。あるいは、ある年代の日本生まれの人々は、大林宣彦の青春ファンタジーを懐かしく思い出したかも知れません。
私は、この作品を撮ったヤスミン・アフマドが、これらの先達の映画を観てきたであろうという推測に疑いを持ちません。マレーシアの一般的な学校に制服があるのかどうか私は存じませんが、映画の中の高校生たちは日本と同じような制服を身に付けています。そしてこの一点がこの映画を学園物語のジャンルへプロファイルし、私たち北東アジアに暮らす者にも馴染のある世界へとぐっと引き寄せるのです。
しかも、賢明な観客であるあなたには、そこで生起している感情の全てが、どこの誰にでも起き得る心の動きだと思えてくるはずです。嫉妬や憤怒など、その中のネガティブなものも含めてです。
私たちの日常には、相手のことを何も知らぬままに、自分の中に生まれてくる感情に突き動かされる言動がたくさんあります。いや、むしろ相手への無知の上に浮かんだ情動こそ、日々の暮らしの中でのエネルギーを生成しているのではないでしょうか。
私たちの社会を構成する信頼や愛だけでなく、誤解というエラーも、全てが人生の出来事に繋がっていくのは、そういうことなのではないでしょうか。
私にとって、2年ぶりの鑑賞となる今回で三度目の鑑賞は、このような思いが再び、いや三度私の中で強くなる経験となりました。
そして今回は、期せずして、ヤスミン作品で3度主演女優を務めた女優、シャリファ・アマニ氏のトークショーが付くという幸運にも恵まれました。
母親を喪ったマレー系の少年ハフィズが早朝のモスクで祈りを捧げるシーンで、彼の前を一羽の小鳥が横切ります。
最初に観たときから、モスクに迷い込んだこの小鳥には、どんな意味があるのか興味がありましたが、アマニ氏の話はその謎に答えるもの以上の感激を私に与えてくれました。
スクリーンに何が映っているのかということは、私たちが映画を観る際にともすると忘れがちな重要問題です。被写体となっている人物の心情を理解し、繋がれた場面間の出来事の連続性を推測するという思考に集中するあまり、私たちは画面に映るものへの意識を失いがちです。
しかしながら、登場人物への理解やストーリーの把握とは、観客の頭の中で起きることであって、スクリーン上に現れているものではありません。
映画を観るとは、フィルムを通して暗闇に浮かぶ影を見ることに他ならないのです。
祈りの場に、しかもたった一人の肉親である、母を亡くした少年が悲しみの祈りを捧げている傍らを、一羽の小鳥が歩くというこの画に、驚きと神の愛を感じるというささやかな幸福。
スクリーンに映る小さな鳥が偶然の所産であることを知っているにせよ、知らないにせよ、その体験の価値に違いなどないのです。アマニ氏のお話を直接聴く機会に恵まれたわたくしは、映画を観るという行為の本来的な意味に、再び立ち還る幸運に恵まれたのです。
また、監督が俳優のミステイクに寛容であり、ときにはそのハプニングを映画にとり込むこともあるという話を聞いて、わたしにはなおさら、この作品に監督の人柄がにじみ出ているのだという思いを強くしました。
他者への無理解と不寛容が日に日に世界中を覆う今日。人々の誤解(ミステイク)が溶けてく先に、信頼と慈愛が満ちてくるこの映画はヤスミン監督そのものなのだと。
そして、この映画はヤスミンやその他のスタッフ、キャスト、そして観客に対する神の恩寵なのです。
人が一本の映画を撮る理由は様々あると思います。それが職業だから。もちろんお金のため。愛する人をスターにしたい。そのどれもが正当な理由であり、そのような目的のために撮られた作品で好きなものもたくさんあります。
ところが、ある作品に、理屈抜きに、どうしようもなく感情を揺さぶられるということは、撮る者の人となりを感じるということから自由にはなれない場合にのみ起きます。
ヤスミン・アフマドの監督作品を、まだこの「タレンタイム」しか観てはいない私が、彼女の人柄について言及することは不適格なのかも知れません。
しかし、アマニ氏の貴重なお話が、このような私の勇み足とも言えるヤスミン・アフマド観に確信を与えてくれたことは確かですし、また、私が青山の小さな映画館の特集上映でヤスミンの他の作品を鑑賞するであろうことも、極めて確かなものであることを述べておきます。