「批評されないことが問題」祈りのちから Lynkeusさんの映画レビュー(感想・評価)
批評されないことが問題
教会を通して前売りチケットが販売され観客の大半がクリスチャンである類いの(いわゆる)「クリスチャン映画」の典型で、この種の映画に感動する人は確かにいるから、こういう映画の存在には、それなりの意味はある。
しかし、映画を批判する人を「信仰がない」を決めつけたり試写会の関係者がチケットの前売りに協力しない教会や牧師を非難するような風潮の中では、万人の心を打つ優れた映画は育たない。
このサイトにも批判的なレビューは載っていないが、それは決して良いことではない。「批評に値しない」と思われて「無視された」可能性が高いのだから。
いや、それどころか、この映画は多くの人に不快と思われた可能性もある。
「最も関わりたくない人」をアンケート調査すると「他人に指図する人」や「私生活に干渉する人」が上位に挙がるこの時代、主人公を導く老婆の言動は「パワーハラスメント」でもある。主人公は、不動産販売の営業を円滑に進めるためには老婆との語らいを拒絶することができないのだから。
「うっかり教会に行ったら、こんな婆さんに付きまとわれるのでは?」と未信者に思わせてしまうことで、この映画は、キリスト教の伝道に害になる危険も孕んでいる。
また、この映画はキリスト教の教義とも相容れない点が多々ある。
信仰とは、こんなに安易なものなのだろうか?
・・・映画では「妻が夫を赦したら夫も反省してハッピーエンド」だが、いい気になった夫が更に妻を軽んじて虐待するのが現実社会だ。夫は、自分の犯行(会社の商品の詐取)を上司に告白し、映画では暖かく受け入れられるが、実社会では、彼は失業するはずだ。子供と一緒に参加した競技会でも下位に甘んじるだろう。そして、主人公も夫も、どん底に落ちるだろう。
この時こそ、信仰が試され、主人公も妻も、このどん底でこそ、主イエスと出会う「かも」しれない。本当の「祈りのちから」とは、ここから始まるはずなのだ。
キリスト教は、「祈ったらうまく行きました、めでたし、めでたし!」の「ご利益(ごりやく)信仰」ではない。
「祈っても祈っても何もよいことは起こらない」ところから信仰がはじまる。夫は、失業したあげく妻を殴り倒して失踪し、子供たちは家出し少年院に入るかもしれない。しかし、目に見える「現実」がそうであっても、「今まで私には見えなかったけど、本当は、祈りがかなえられていたんだ!」と解る瞬間が(もしも)妻におとずれたならば、そのときの歓喜と神への感謝こそが「祈りのちから」なのだ。
しかし、この映画は、「祈り」を幸福追求の手段のように描き、「祈りのちから」を「アラジンの魔法のランプ」のレベルにまで引き下げている。そして、そのことが全く気づかれず、問題にもされず、論じ合われることもない。
・・・これが問題だ。