十字架(2015)のレビュー・感想・評価
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下すのではなく抱えて生きてゆく
自分に降りかかる良い体験、悪い体験はすべてが記憶になり次第に消えさってゆく。そこで消えさらない記憶というのが思い出なのだと思う。自分にとってとても大切で幸せな思い出と忘れたいのに忘れられない最悪の思い出とを下すことなく忘れずに、その経験をもとにこれからを生きていく。それが人生であるのだとこの映画に教えられました。
また、「いじめ」がいかに悲惨で残酷なことであるかということを改めて知れ、今後一生消えることはないであろうこの社会問題をそれでもひたすら考え続けていかなければいけないと強く感じました。絶対に他人事ではないのだと感じました。
役者陣に助けられてるかな
伝えたい内容もわかります。誰の立場に立っても辛い話です。
でも、映画としてどうなのかな?ポイントを激しく訴えて、詳細は描ききれていない感じがする。
願い
この映画を観て、同じような経験をしない人が少しでも増える事を願う。
「いじめ」というモノの実態は分からない。
把握もし辛いんだと思う。
なぜ、発生するのかも理解し難い。
そこまで、他人の存在を貶める事が、どうして可能なのだろうか?
だけど、そういうモノがもたらす一つの結果を本作は声を張り上げ叫ぶ。
誰も幸せにはならない。
誰一人、幸せを感じない。
一過性のものと思うのは大きな間違いだ。
…昔なら苦い思い出と苦笑くらいはしあえたかもしれない。
でも、でも、現代のように、あのようなものが横行し、いや…あれより酷い状況だってあるのだろう。
ダメだ。
ひたすらにダメだ。
死んだ事では終わらない…。
何かが、また始まる。
今度は卒業とか節目とかは訪れてこない。
1人でも多く、このような過去をもつ人がいなくなりますように。
そういう切なる願いが、胸に去来する。
そんな作品。
主役が中学生を演じている事に最初こそ違和感を感じもしたが、本作の主軸であろう「降ろせない十字架を背負った人」「継続していく時間」の事を鑑みると英断だったと思う。
実際、それは些細な事だと思えた。
それをも凌駕するメッセージ性がこの作品にはあると思えた。
自分にはこの十字架を背負えるのだろうか?
本作は重松清氏の吉川英治文学賞受賞作が原作の映画化と言う。
この作品の様に、多くの読者ファンや、ベストセラーとなった作品の映画化は、その本来の持ち味を如何に活かしつつ、映像でしか伝えられないメッセージをその作品の中にどう込めてゆくのかが、映像作家の大きな課題となると思う。
特にイジメが原因で、自殺をした少年の遺族と、そのクラスメート達のその後人生をテーマにしたお話はデリケート過ぎるのだ。
問題のイジメのシーン等は文学と違い、映像で表現するには、何処まで、どの様に描く事で、イジメを受けていた少年の苦悩がピークに達して、死を自ら選択するまでに至ったのか?その点をリアルに映像として見せなければ嘘っぽい映像になると言う、難しさが有ると思う。
本当に話題性が有る半面、映画化にあたり監督初め、俳優陣には非常に苦労が伴う作品で有っただろうと思う。
この作品は実際に同年代の学生さん達には、勿論観て色々考えて貰いたい作品だと思うし、その親御さん達にも必見の作品だと思うが、よくよく考えてみると、今の日本(日本ばかりではない)では、イジメが存在しているのは、本当に学校だけなのだろうか?と考えると、会社でも芸能界でも、政治家達を見ていても、人と人が多く集まる集団の中では必ず派閥が起こり、人の集まる社会ではイジメが存在するのも事実だ。
いや、むしろ、今の一般社会ではイジメは何処でも存在する事を子供達に自覚させ、その上でイジメに負けない生き方を教えていかなければいけないようにさえ、思うのだ。
ある意味、今の時代を生きると言う事自体が、競争社会と言う人の足を引っ張り生き残りを図るサバイバルゲーム社会と言ってもおかしくないと思う。
人の集う処では、そのグループや枠組みから外れる者、或いは枠組みに入れて貰えない者等が有り、イジメは決して子供達だけの世界に限った現実ではない。
その様な意味に於いて、本作は家族揃って、或いは学校で課外授業としてみんなで観ても良い作品だと思う。
しかし、それにしても学校でのイジメは、小学高学年から、中学高校生ともなれば、分別も出来る年頃とは言っても、未だ大人に成りきれない子供なのだ。やはり大人の立場で有る教員が生徒の日常にもっと責任を持って指導する事が望まれる。とは言うものの、共働き等で忙しい現実の親が自分の子供を他者に任せてしまうところにも大きな原因が有る訳だ。
結局事件が起こってからでは、誰かが傷つけば、その傷を負った人間に関わる総ての人が何かしらの影響を受け、その結果苦しみの十字架を長年背負う事になるわけだ。
出来る事ならば、生きている人生の中で余計な十字架を背負う羽目にならないよう、日頃から周りの人との関係を少しでも良いものにしてゆく努力をする事が、自己の人生を豊かに築いてゆくことになるのだろう。
余計な十字架を背負いながら生きるそのために、足腰の筋力を鍛える事ではなく、未然に十字架を作らない工夫を、日々の生活に取り入れたいと、そんな思いの残る映画だった。
主人公真田祐を演じた小出恵介の中学生はダブルキャストにして欲しかった。最初のシーンでは担任の教師に見間違えるもの。自殺したフジジュンの弟はダブルキャストなのだから、小出君もダブルキャストで演じた方がよりリアルで自然になるのは言うまでもない。フジジュンの弟を演じた葉山奨之の芝居にも今後期待したい! そしてフジジュンの両親を演じた永瀬正敏と富田靖子良かった!決して観て楽しい作品ではないけれど、多くの人にとって観る価値の有る作品だと思う!
「シュートだ、フジシュン」
私の大好きな作家のひとりである重松清さんの同名小説を原作とした映画で、もちろん原作は既読です。
いじめによって自殺に追い込まれてしまった中学生の、遺書に親友として名前を書かれていたクラスメイトの男子、片想いを寄せられていた女子、いじめの主犯格たち。
見て見ぬ振りをしていたその他大勢として罪の意識を共有することさえできず、十字架を背負うことになった彼らは、何を思って、どのように生きてゆくのか。
許すこと、許さないこと、許されること、許されないこと。
もっと言うと、許されるべきでないこと、許されたくないこと。
「赦し」を主題に、人の身勝手さや脆さ、十字架を背負って生きることの困難と葛藤、それでも生きることの大切さを描いた、静かな名作だったと記憶しています。
特に印象的だったのは、クライマックスのシーン。
大人になって子どもができた主人公が、自分の息子とサッカーをしているときに、息子と自殺したクラスメイトをオーバーラップさせて感情を発露させるシーン。
「フジシュン、パスだ」
クラスメイトに向けてパスを出す主人公。
ボールを受けてドリブルするクラスメイト。
ゴール前。
「パスだ、ゆうくん」
自分でシュートを決める自信がないのか、主人公にボールを戻そうとするクラスメイト。
「だめだ、シュートだ!」
「パスだ、パスだよ、ユウくん」
「だめだ、シュートだ、フジシュン!」
主人公は、クラスメイトの一方的な親友であり、憧れの存在だった。
かたや、スポーツ万能、頭脳秀才。
かたや、体操着を便器に突っ込まれ、運動靴には焼きそばと牛乳をぶち撒けられる存在。
ずっと見ていた。
ずっと憧れていた。
ずっと、親友になりたかった。
「シュートだ、フジシュン!」
前を向くクラスメイト。
振り抜いた足から放たれたボールは、力強い軌道で無人のゴールネットを揺らす。
振り返るクラスメイト。
その目は、主人公を見ている。
その目は、親友を見ている。
フジシュンの遺書に、一方的に親友として名前を書かれたユウくん。
彼には親友と呼ばれるような理由はなにひとつ思い浮かばなかった。
その他大勢のクラスメイトと同様、いじめを見て見ぬふりして過ごしてきた。
見て見ぬふりは、見ていないのと同じだ。
彼はフジシュンを見ていなかった。
遺書に名前を書かれて、フジシュンの家に通うようになって、仏前に線香をそなえているときも、彼は本当にはフジシュンを見ていなかった。
自分に関係のない存在、もの、勝手に死んだ弱いやつ、そのくせ自分を巻き込みやがった迷惑なやつ。
そんなふうに、表に出さなくても、心のどこかで思っていた。
20年以上の時が過ぎ、大人になった。
結婚して、生まれた子どもも、もう小3だ。
そんな息子に、父の知らない親友がいるらしい。
母がこっそり父に教えてくれる。
その親友は、あの子の憧れのクラスメイトなの。だから、悲しいけど向こうは、あの子のことを親友とは思っていないと思う。
はっとするユウくん。
あの日のフジシュンの顔が脳裏に浮かぶ。
パンツを脱がされながら、こちらを見て助けを求めている顔が浮かぶ。
土まみれの靴を水道で洗いながら、差し出したスリッパを笑顔で断る顔が浮かぶ。
位牌の中で目を細めて破顔するフジシュンの顔が浮かぶ。
「サッカーしよう」
息子を突然サッカーに誘うユウくん。
フジシュンは自分に憧れていた。自分はフジシュンの憧れだった。
じゃあ、俺にとってフジシュンは......?
はじめてフジシュンという存在を自分の関係性の中にいる人間として認識したユウくん。
俺は、あの日のフジシュンに、どんな言葉を掛けたかったんだろうか。どんな言葉を掛けることができたんだろうか。
頼りなく笑うフジシュン。心をじゅくじゅくに濡らしながら、それでもまぶしそうに笑ってみせるフジシュン。
「シュートだ。シュートだ、フジシュン!」
20年の歳月を経て、はじめてユウくんがフジシュンに何かを求めた瞬間。
求めるということは、期待するということ。
期待するということは、その人を、かけがえのない存在として認めるということ。
フジシュンと自分との関係が、真新しい糸で一気に編み直されてゆく。
幻想から覚めると、ボールはどこか遠くへ飛んでいってしまっていた。
自分が思いきり宇宙開発してしまったらしい。
「新しい、プロ仕様のボールを買ってやるから」
息子と約束して家に帰る。
寝入った家族を起こさないように、思い出ダンボールの中からあるものを取り出すユウくん。
それは、フジシュンのお母さんが、大学入学祝いにとプレゼントしてくれた万年筆だった。
自分にとってのフジシュンは、どんなやつだったか。
今なら書ける気がする。フジシュンと過ごした数年を、今ならイチから書ける気がする。
万年筆を右手に、手紙と向き合うユウくん。
その背中は知っている。
十字架は背負わされるものじゃなく、内臓のひとつのように体の中にあって抱えて生きていくしかないものなんだと。
私たちができるのは、荷を下ろすことではなく、背中を強くして、足腰を鍛えることしかないんだと。
きっと本作の監督・五十嵐匠監督は、この『十字架』という物語が大好きで大好きでたまらなかったんだと思います。
だからこそ、この作品を作れたことに無上の喜びを感じていらっしゃるのではないかと思いつつ、もっとやれたという燻りも残っているのではないかと。
どうなんだろうと首をかしげてしまう演出もなかにはあったけれど、それはともかくとして、物語自体はとても考えさせられる、味わい深い作品だと思います。
小説と合わせて、ご興味があれば、是非ぜひ。
私だけの十字架
ひとつの事件が起こって、関わった人は、十字架を背負うことに。形も、重さも、人それぞれ。私だけの十字架。唄ってる場合じゃないですね。やはり、人が人を赦すのは、難しいことですねぇ。昔観た「ラビットホール」って映画を、思い出しました。で、問題は現実のほうで、クラスで自殺者が出ると、葬式より先に、次のターゲットを探すそうです。また、自殺者が出ないと、1人を除いて、みんな笑って卒業するそうです。今この国に、遊びで人を死なせた人が、何人いるでしょう?。彼らは、裁かれることなく、今、そこにいます。そう思うと、ホラー映画より、怖いですね。
この映画をみて
2月6日に十字架の舞台挨拶に行きました。
自分は中学校の時いじめられ、また高校で友達がいじめられている所を見ている事しか出来なかった事がありました。でもこの映画を観て、また実際監督さんからがこの映画で何を伝えたいのかがわかったと思います。この映画をみていじめられている子を見捨てず助けたいと思いました。
また木村文乃ちゃんの演技がとても素晴らしいかったです
イジメたあとに残るもの。
重松清原作だけあって、容赦なくイジメをえがくのだか、たぶん、若干の手加減は加わっているようだ。現実として、イジメが起きているであろう現場でも、鑑賞に耐えれるように。
交通刑務所に服役中に見せられる映画は、こんな気分なのだろう。
もちろん、イジメたやつが悪い。だけど、大人はどう?関心をもたなかった父親もか?
だけど、僕が一番怒りを覚えたのは、担任だった。あんた、イジメ知ってたでしょ?なのに、なんで悔やむどころか、生徒たちを責める?
普段から干渉しなくてもいい。だけど、水槽の水を換えてあげるように、大人が面倒をみてあげていなければ、子供たちの健やかな成長はないのだ。
母親が、息子の体育着を手渡され、顔を埋めて匂いを嗅ぐシーンが堪らなく切なかった。
ただ、やっぱり小出の中学生ってのは、無理だなあ。それに、フジシュンのほうがサッカーうまいぞ。
内容は重かったけどいじめられている私からしたら共感出来るところがあ...
内容は重かったけどいじめられている私からしたら共感出来るところがありました。いじめている人達や先生達にも見てもらいたいです。
主題歌良かったです。あと木村文乃さんが可愛かった。
中高生の皆さん見て欲しいです。
人が人を思う機会がもっとあればいいですね
最近は、気分が萎える映画とのめぐり逢いが多い。
小出の中学生役は無理がある。しかし、自分の息子とサッカーをしているうち息子が
フジジュンにオーバーラップする場面が終盤にある。小出がそこで夕日を眺めながら、肩を震わせて涙を
流す所があるのだが、あの時の裕の感情を芝居で見せることが出来るのは、たぶん、小出しかいないだろう
と思った。っていうか私が涙した所だから。
今回の作品で気になった場面がある。永瀬が「最近、やっとおいしいお茶がいれられるようになってねぇ…。」と言う場面????この男は、実は家のことも家族のことも無関心だったのではないだろうか?生前の息子が何に悩み、なにに苦しみ、なにを思って生きてきたのか?一番知ろうともせずに生きてきたのは自分ではないかと。気づいたのではないだろうか。だから家の庭の木をチェンソーで切り倒すというよからぬ行動にでたのではないか?
意味もないのに。この映画は「一人の少年の自殺」によって、いじめ意外で彼と関わった人間たちの後悔や反省がずっしり描かれている。
ラスト、フジジュンの「あこがれ」であった小出さんが永瀬へ手紙を書く自信を持てるようになった時点で
終わる。このような自殺は、これからも終わらないであろう。結局自分のことしか考えない自己中心的な人間が増えているからだ。生活指導教師が、教壇に立って言ったことは、亡くなった生徒を思って?自分の立場を考えて?学校のイメージを考えて?ますます人が人を思う機会が薄れつつあるから。
若い人達に見て欲しい
いじめによって14歳という若さで自殺した少年を取り巻く人たちが長年背負ってきた苦しみについてのお話。すごく重いです。いじめのシーンも生々しいです。この映画から生きる事について考えさせられます。若い人達に見て欲しいですね。重荷を下すのではなく、背負って足腰を鍛えて生きていくという言葉は印象的でした。
常に違和感
役者陣はがんばっていたと思うしストーリーも悪くない。
しかしながら全編通してみんながみんな言動も行動もそんな訳ないだろうという感じで響かない。
終盤の突然雨が降りだす演出もチープだし、雨の中チェーンソーって…。
中学生と30代を同じ役者にやらせるのも無理があり過ぎるし、制作陣はホントにこれで納得しているのか?
演技力
いじめを題材としているためとても話は重かったです。
コメディ性は一切なく、学校という社会のひどい一面を突きつけられたような感じがしました。
ところどころ目を背けてしまうような恐ろしい映像も…
軽い気持ちで観る映画ではないと思いました。
小出恵介さん、木村文乃さんら俳優陣の演技力が素晴らしかった。
このキャストじゃなきゃ成立しなかったと思うくらいでした。
そのさきにあるゴール
試写会で観てきました。いじめによって死を選んでしまうまでの課程や、その後の人生に重くのしかかるそれぞれの立場の思いに、とても身につまされました。
試写後にleccaさんの歌声と、五十嵐監督やフジシュンを演じた小柴くんの作品に対する思いが聞けて良かったです。
現実のいじめはもっと酷いといっていた、監督の言葉が印象的でした。
いじめという異常な現実に向き合った作品だと思います。
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