劇場公開日 2016年1月16日

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「無自覚だった悪意に気づいてしまったのか」最愛の子 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)

4.5無自覚だった悪意に気づいてしまったのか

2016年4月7日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

2009年7月、場所は香港に接する深圳(シンセン)。
路地中でネットカフェを営むティエン(ホアン・ボー)は妻ジュアン(ハオ・レイ)と離婚し、3歳の息子ポンポンを育てている。
ある日、ティエンが目を離した隙にポンポンは友だちと近くの空き地にローラースケートをする人々を見に行ったあと、何者かに誘拐されてしまう。
ティエンとジュアンは必死でポンポンの行方を探すが・・・というハナシ。

3年後、山間部の農村でリー・ホンチン(ヴィッキー・チャオ)という未亡人に育てられていることを突き止め、奪い返しにいくあたりまでは、ティエンの捜索活動が中心で物語の幅は狭い。
途中、貧困のために育てられなくなった自分の息子をポンポンと偽る男性や、偽の情報でティエンがかけた懸賞金を奪い取ろうとする輩などが登場して、中国社会の行き詰まりをスリリングに描いていくが、このあたりまでは普通のサスペンス映画と変わらない。
(変わらないが、非常によく出来ている)

しかし、この直線的な構図の映画が、中盤から別の様相を呈していきます。

ポンポンを育てていたホンチンのもとには、もうひとり娘がいるのである。

ホンチンの言によると、1年前に亡くなった彼女の夫との間に子を生すことはなく、ホンチンは不妊症と思われた。
そのため、夫は深圳の女にポンポンを産ませ、連れ帰ったと。
さらに、出稼ぎ先の工事現場に捨てられていた娘を拾って帰った、というのである。

ポンポンについては、証拠の監視カメラ映像もあって夫による誘拐と決定され、ティエンのもとに返されるが、娘のついては養育を認めてほしいと訴えだす、というもの。

この展開にはビックリした。

単なる誘拐事件のハナシではなく、ピーター・チャン監督はどこへ観客を導こうとしているのかがわからなくなってしまいました。

しかし、監督の意図は、この後に立ちあがってくる様々な人々のエピソードを並行して描くことで、現在の中国をまるっと描こうとしていることがわかってきます。
すなわち、

娘だけでも取り戻そうとするホンチンのハナシ、
ティエンに協力していた児童誘拐被害者の会を主催する夫婦のハナシ、
ティエンと離婚した後、新たな夫と再婚してたジュアンの家庭内不和のハナシ、
さらに、ホンチンに協力する若手弁護士(彼には認知症を患った母親がいる)のハナシなど。
ほかにも、ホンチンの夫が娘を拾ったのを目撃した農村からの出稼ぎ労働者のハナシなども加えていい。

この現代中国をまるっと描こうとするのは、ジャ・ジャンクー監督の『罪の手ざわり』に似ているが、描き方はこちらの映画の方が優れている。

しかし、しかしながら・・・
後半、観つづけているうちに、どことなく居心地が悪くなってしまった。
映画が面白い、つまらないというのとは全然異なるこの居心地の悪さはなんなのだろうか・・・
すごく、気になった。

観つづけていくうちに気づいた。

前半の直線的構図の中で登場した「明らかに悪意を持った人」がいないのである。
ティエンはもちろん、ジュアンもホンチンにも、そのほか誰もが皆、「明確な悪意はない」のである。
映画のエンディングにかかわってくる先に記した農村からの出稼ぎ労働者にしても、である。

悪意があった(認識していた)のは、この複雑な物語を進める契機をつくったホンチンの夫だけで、彼はすでに死亡してる。
いわば「悪意の不在」なのである。
いや「不在」そうではなく、周囲に満ち満ちている悪意に「無自覚」なだけなのかもしれない。

この「悪意に無自覚」というのが、ピーター・チャン監督の意図したところだとするならば、この映画、観ていて居心地が悪くなって当然だろう。

そして、最後に泣き崩れるホンチンは、歓びのなかでその悪意に気づいてしまった・・・
このときの彼女の感情の複雑さ、遣る瀬無さはいかほどだったろうか。

この後が観てみたいと思った。
<追記>
映画のエンドクレジットとともに、この映画のもとになった事件の当事者たちのその後の映像が流れます。
ここから窺い知るに、真偽のほどはわかりませんが、実際の事件とこの映画で描かれたラストとは違ったものだったのだろうと思いました。

りゃんひさ