「作家性が強すぎて当惑」さようなら(2015) odeonzaさんの映画レビュー(感想・評価)
作家性が強すぎて当惑
ナレーションが小さすぎて冒頭の火災の画から原発事故は読み取れません、船が燃えているのかと思いました。ニュース映像も英字なので分かる人しか分からない切り捨て方、強引さを感じました。
ターニャが窓辺のソファーで延々横たわっており、外の風景描写から戻ったときには窓が少し空いていました、時間経過表現より間違い探しのような無用の刺激が先立ちます、第一印象から灰汁の強さを感じました。
ラストまで来て冒頭の長廻し、頻出の画の意味が分かりました、ソナタ形式でしょうか?ただ裸体の必然性は皆無ですが説明性を嫌う前衛芸術でしょうか?
3.11の悲劇は市井の人々が記録した多くの映像で伝えられ鮮烈な印象を残した稀有な大惨事でした。表現者ならずも皆が衝撃を受け救いようのない、立ちすくむだけの無力感を感じたものです。
本作も触発されたひとつだろうと感じます、放射能汚染を背景に、喪失、死あるいは不死などを綴ります。死の韻でしょうか多くの詩が読まれ舞台版は観ていませんが朗読劇を思わせます。
映像的にはタルコフスキーの「ノスタルジア」に通ずる作家性を感じますが、あまりにも単調で冗長的であり不自然な時の流れを感じます、自転車に乗ったターニャが家についていないのにレオナは詩をターニャに聞かせていましたね、せめて編集ではシーケンスルールを壊さずに繋いでほしいところです。映像を歪めたり陰影の極度の強調は演出というより古典絵画の借景に見えます。
自然体であるべきだという原作者の平田さんのかねてからの演劇論の主張は文章で読むから同調できるのですが、実践で役者の口からたどたどしい日本語で尚且つボソボソと喋られると全く聞き取れない。そういう時はこちらも開き直って、日常性の切り取りなら「あヽ、聞かなくても感じるだけでいいんだな」と思うことにしました。
フランスでは無声映画をArt Muet (無声芸術)と称していました、伝える意思のないセリフを散りばめることと無声映画の違いは何でしょう。ストレスで集中力を操作するのでは野蛮でしょう。もともと劇中で記憶に残るセリフはそう多くはありません、際立たせるには陰影が必要なのでしょう。
私の印象に残るセリフは・・・
レオナ「私には感情がありません、私の美意識はあなたから学んだことです」
ターニャー「私はずーっと私と話をしていたのね・・」
レオナ「すいません」
でした。AIの本質をえぐるような視点ですね。
作家性の強い映画なので超玄人向きなのかもしれません。
一番の役者は意外にも無表情のジェミノイドFと思え、唯一微笑んだようにみえたあのエンディングには痺れました。