「【自分と向き合うことと、解放感と】」ハッピーアワー ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
【自分と向き合うことと、解放感と】
自分自身と、自分の奥底に潜むものと向き合うのは大変だ。
だが、そうしないことには、自分のことを好きになれなかったりする。
この長い長い作品を観ながら、僕達は自分自身を理解しようと試みることになるのではないのかと思う。
女性は女性としてシンパシーやエンパシーを感じるだろう。
また、男性は、女性4人が主人公だけれども、その視点で男性としての自分に共通する部分を見つけたり、当然、彼女たちを取り囲む存在としての男性を通じて感じるものもあるだろう。
この作品を観た、その日の夜、Eテレの100分で名著「ディスタンクシオン」の最終回で、著者である社会学者ブルデューの随分古いインタビュー映像が流れた。
移民労働者に関する著作に収められた移民との対話を読んで、自分自身を見出したという人達の反響が多かったこと、中には、自分を理解することが出来たという女性もいたことが語られていた。
大袈裟な言い方かもしれないが、この「ハッピーアワー」は、登場人物を通して、僕達を自分自身に向き合わせる、そんなエネルギーを秘めている気がするのだ。
僕は、ジェンダレスな社会を志向する方だ。
ただ、この作品を観ながら、「批判的な意味ではなく」、ジェンダーから逃れることは、改めて難しいなと感じるし、そして、この事実と折り合いをつけながら生きていかなくてはならないのだろうなとも思う。
話は変わるが、鵜飼がボランティアをしていたと言っていた東日本大震災の被災地、神戸、そして、有馬は、もしかしたら、象徴的に使われたのではないか。
神戸は阪神淡路大震災で被害の大きかった場所だし、有馬は、こずえの朗読でも出てきた通り、有馬高槻断層帯でも知られる場所だ。
この作品は15年の公開だが、18年の大阪北部地震は、この断層の一部が動いたものだ。
僕達は、生きていく中で、悩みなど様々な歪(ひず)みを抱えて過ごしている。
純の起こした離婚裁判は、長いこと蓄積された断層の歪みの反動のエネルギーのようなもので、更に、これに突き動かされたように、桜子、芙美、あかりの人生も揺り動かされる。
活断層が動いた後の余震のようだ。
何事もないように立っていたビルや住宅、道路や、畑や田んぼにも亀裂が入り、元に戻すのは容易ではない。
だが、そこに折り合いをつけて、また、僕達は生きていかなくてはならないのだ。
前段で、ジェンダーと折り合いをつけながら生きなくてはならないと書いたが、そもそも、僕達の存在そのものが微妙なバランスを保ちながら生きている。
あの、鵜飼がワークショップで見せた、一点立ちの椅子のようだ。
あっと言う間に、倒れてしまう。
丹田に耳を当て、耳を澄まし身体の音を聞いてみたり、背中を合わせて呼吸を合わせて立ち上がることが出来て、楽しくても、何かを感じても、それは、何かを理解したことにはならない。
やはり、言葉は重要だ。
だが、時として、言葉は耐えられないほど軽く、心の奥底を表現するのが難しかったりする。
こずえの小説の中に出てくる拓也を模したのではないかと思われる人物。
こずえの気持ちを窺い知ることが出来ても、こずえが拓也に直接好きだと言う方が、本当はより伝わりやすかったり。
だからといって、更に踏み込んで、誰かと肌を擦り合わせ、肉体を合わせても、本当に欲しい回答を得られるわけではない。
有馬で4人の写真を撮ってくれた滝好きの女性。
父親が祖父の死を隠していたことを話す。
父親はよく嘘をつくのだと。
純は、それを聞いて何を感じていたのだろうか。
僕は嘘ではなかったのでないかと思う。
父親は、祖父が生きていると信じたかったのではないかと。
純が、公平に対して起こした離婚裁判には、真実じゃないものもあるのかもしれない。
しかし、溜まりに溜まった歪(ひず)みから生まれた公平に対する感情は真実だ。
何かを掴みかけていると言って、身重で一人旅立つ純。
事故を起こした拓也にざまみろと言ってやると話す芙美。
家を出ていかないし、良彦に謝ることはないと言い放つ桜子。
怪我をしながら、複数の男と寝て、桜子に詫びてやり直したいと、純の帰りを待って、また、旅行に行きたいと言うあかり。
自分に向き合って、何か吹っ切れたような4人は、前よりも、もう少し、いや、もっと自分を好きになっているに違いない。
※ 年末で過去放送のドラマの再放送オンパレードだったりするが、この作品は夜中にでもテレビ放送してあげたら良いのにと、日本中の人に見て欲しいと思うくらい、素敵な作品でした。