劇場公開日 2015年10月3日

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「「悪」は常に平凡な者を狙う。」顔のないヒトラーたち ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0「悪」は常に平凡な者を狙う。

2015年12月11日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

悲しい

怖い

知的

罪を犯した個人が、自分を客観的に見つめることは、それだけで勇気がいる。
ましてや、国家ぐるみの戦争犯罪を、国家が率直に認めることは、なおさら難しい。ドイツはそれをやってのけた。
うがった見方をすれば、ドイツにはヒトラーという「独裁者」圧倒的な「ワルモノ」がいたことで、反省を早期に促す、ある種の触媒になったのではないだろうか?
ヒトラーという、人類史上類を見ない独裁者に罪を被せることで、ドイツは贖罪をしやすい土壌がすでにあったのかもしれない……と僕は、勝手にそう思い込んでいた。
ところが、本作を鑑賞してびっくりした。
本作で描かれる1950~1960年代。当時の西ドイツでは、けっして国全体で戦争犯罪を見つめようとする姿勢は、まだなかったことが伺い知れるのである。
というのも、その頃まだナチスに加担した人は存命であり、その数、なんと数千人。ごく普通の「善良な市民」として、ドイツ国内に紛れ込んでいたのである。
本作は、新米の裁判所検事ヨハンが、かつての「ナチス」党員の、アウシュヴィッツでの犯罪を徹底的に追及してゆく、というストーリーである。これは事実に基づいたセミ・ドキュメンタリーだ。
主人公の若い検察官ヨハン。彼にまわってくる事件、案件は、せいぜい交通違反の罰金をいくらにするか? などという小さな案件ばかりだ。
なにせ彼はまだ検察官になりたて、ペーペーの新人なのだ。お役所の中にあって、最も低いヒエラルキー、ポジションしか与えられていない。
ある日、ヨハンは新聞記者グルニカから、一つの情報を知らされる。
「元ナチの親衛隊員が教員をやってるんだ、こんなこと許されていいのか?!  そいつは元、どこにいたと思う? あのアウシュヴィッツだぜ」
このとき1958年、戦後すでに13年が経ち、ドイツの人々は、あの忌まわしい戦争を忘れよう、としていたのが、本作からうかがえる。
なんと当時、ドイツの若者の多くは「アウシュヴィッツ」という象徴的な「単語」さえ知らない者が多かったらしい。
グルニカからの有力情報は、お役所の中では誰も相手にされなかった。
しかし、ヨハンは若さゆえの正義感からだろうか、この新聞記者の告発を調べてみようと思い立つ。
しかし、それはまさに決して開けてはならない「パンドラの箱」「迷宮」「地獄への入り口」に他ならなかった。
ヨハンはまったくそれに気がつかずに、そのドアを開けてしまったのである。
ナチス容疑者の内偵を密かに進める、主人公ヨハン達検察チーム。
かつてのナチ党員は、ある者は学校教師として勤め、ある者は街のパン屋さんとして実直に働いている。
ニコニコしながら美味しいパンを焼く職人さん。この好人物が、まさか元ナチス党員とは誰も思わないだろう。
しかしアウシュヴィッツ強制収容所で、幼い子供を壁に何度もぶつけ、なぶり殺しにしたのは、今パンを運んでいる、まさにこの男なのだ。
また、大量のユダヤ人をガス室に送り込んでいた男が、いまや教師として平然と勤務していたりする。
やがて、この「アウシュヴィッツ」を巡る事件は、西ドイツに住む人々、ほぼすべての人が「ナチスに加担していた疑いがある」という問題に発展してゆく。ヨハンはやがて自分の父や母でさえ「ナチスの協力者」ではなかったか?
という壁にぶち当たる。
「しょうがないじゃない、そういう時代だったんだから!!」
誰もがそういう。ヨハンの恋人さえも。
だが、ヨハンには心強い味方がいた。
職場のトップ。首席検事バウアーである。
彼はユダヤ人だった。
「しっかりしろ、ヨハン。まず被害者と加害者を特定しろ。確実な証拠を掴むのだ。 明らかな犯罪行為を立証するんだ! 私がこの職にある間にな……」
この事件を引っ掻き回すことは、西ドイツ政府にとってもタブーであったのだ。首席検事バウアーは知っている。いつ自分が左遷されるかもしれないことを。
やがてヨハン達、検察チームは、十数人の容疑者の割り出しに成功。彼らを逮捕し、告訴に踏み切る。
こうして「アウシュヴィッツ裁判」が始まるのである。
しかし、ヨハン達が最も追及したかった男が捕まらない。
それは温厚な医師である。
彼は収容所で双子を選び出す。そして数多くの、おぞましい人体実験を行った。男の名前はヨーゼフ・メンゲレ。別名「死の天使」
1963年12月に始まったこの「アウシュヴィッツ裁判」によって、国家的な犯罪行為が明らかとなる。
本作の公式サイトでは、ドイツのメルケル首相が述べた、追悼式典でのコメントが紹介されている。
「私たちドイツ人は恥の気持ちでいっぱいです。何百万人もの人々を殺害した犯罪を見て見ぬふりをしたのは、ドイツ人自身だったからです。私たちドイツ人は過去を記憶しておく『責任』があります」
時に権力の地位にあるものは、都合の悪い過去を顧みようとしない。更には、「歴史など書き換えてしまえばいい」という、信じられないほど傲慢な態度をとる者もいる。一例を挙げれば、旧日本軍の731部隊については未だに謎の部分が多い。
本作で描かれる、裁判で告訴された被告達。彼らはある種の「みせしめ」に過ぎなかったのかもしれない。
「もっと悪い奴はいる」
おそらく被告達はそう思っていただろう。事実ヨゼーフ・メンゲレは、まんまと逃げおおせ、一度も逮捕されることもなく天寿を全うした。死因は水泳中の心臓発作だった。
本作のタイトルは「顔のないヒトラー達」
実は、善良な一般市民、僕も含め人の心の中には当然、すくなからず「悪」が存在し、残虐性や、攻撃性もある。
そしてなにより、それらは「凡庸な」「普通の」人々の、こころのなかに、そして日常生活の中に、こっそりと潜んでいる、ということである。
ガス室へ送られたのは普通の市民だった。
そしてガス室へ送ったのも、また、「普通の市民」だったのである。
人々の心の中に巣食う「小さな悪魔」をうまくあやつる「扇動者」が出現した時、小さな悪魔はその本性を剥き出しにする。
「巨悪」を平然と行う、「暴力装置」へと変貌するのだ。
その本質は、意思を持たない怪物、別名「群衆」なのである。
以前僕は「ハンナ・アーレント」という作品を鑑賞した。
ナチスの戦争犯罪者アイヒマンの裁判を傍聴した、哲学者ハンナ・アーレント女史の伝記映画である。ハンナ・アーレントは裁判を傍聴しながら気づく。アイヒマンは中身が空っぽの男なのだ、自分の意思というものがまるでないのだ。
被告席に座る男は、単なるヒトラーの「イエスマン」だったのだ。
裁判を傍聴する過程で彼女はやがてひとつの「確信」を得る。
「平凡な市民」の中に巣食う「悪」こそ着目すべきだ、ということを。
それは扇動者に利用されれば、恐るべき「浸透力」「伝染力」を持って「大衆」を瞬く間に支配するのだ。
ハンナ・アーレントは、これを「悪の凡庸さ」と名付けた。

ヒトラーは平凡な男だった、という。
そのあまりの平凡さが「悪のブラックホール」へと大衆を飲み込んでいったのかもしれない。その危険は今も続いている。

ユキト@アマミヤ