この世界の片隅にのレビュー・感想・評価
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この映画をレビューするのは無粋だよ…。
とか言いつつレビューするんですが…😅
太平洋戦争時の呉を舞台に、懸命に生きる女性すずと、彼女の周囲の人々の生活を描くヒューマンドラマ・アニメーション。
主人公すずの声を演じるのは、『告白』『ホットロード』ののん。
第40回 日本アカデミー賞において、最優秀アニメーション作品賞を受賞!
今年も8月がやって来ました。
そのためなのでしょう。この作品が映画館でリバイバル上映していたので観賞してみました。
いつか観ようと思いつつも、戦争映画が苦手だと理由で今まで観てこなかったのを後悔…😭
70人収容の小さいシアターでしたが、3分の2くらいは席が埋まっており、なかなか活気がありました。
アニメとはいえ題材が戦争なので、年齢層は高め。
どちらかというと男性客が多いかなぁという感じ。
太平洋戦争の時代を扱ったアニメといえば、高畑勲監督の『火垂るの墓』と、宮崎駿監督の『風立ちぬ』が思い浮かんでいましたが、この2人の弟子とも言える片渕須直監督がこの2作と肩を並べる、いや、超えているといっても良い程の傑作を作り上げてしまいました。
太平洋戦争末期というデリケートな時代に正面から向き合い、政治色を抑えつつも確固たる反戦メッセージを送り、愛と誠の物語を描き切ったこの作品に万感の思いを込めて拍手を!
徹底的な考証を元に作り上げられた広島や呉の街。生き生きとしたキャラクターの動き。声優の熱演。ひりつくような戦争描写。絶妙なエロティシズム。コトリンゴさんの歌声。「悲しくてやりきれない」を主題歌にするセンス。どれをとっても一級品で本当に感心しました。
この映画、開始3分で泣けます。
幸せな子供時代の映像は、これから悲劇の時代が到来することを知っているだけに涙を誘う。
厳しい時代の中、懸命に「普通」に生きるすずさんの姿にまた涙…😢
あらゆるものを失いながらも、前向きに生きていこうとする北条家の姿にまたまた涙…😭
オープニングからエンディングまでどんだけ泣かすんだこの映画は!
のんさんの演技は本当に神がかっていました。彼女の素朴な演技がなければこの映画はここまで感動的なものになっていなかったと思います。
昨今のアニメ映画の風潮に逆らい、この映画では本職の声優の方々が脇を固めています。
正直、アニメ声優の形式ばった演技が嫌いなのでこのキャスティングには少し不安だったのですが、周作役の細谷佳正さんをはじめ、皆さん素晴らしい演技をされていました。
人類史に残る悲劇の日まで、刻一刻とカウントダウンされていることを知らず、映画の中のキャラクター達は1日1日を出来るだけ楽しく生きていこうとしています。悲劇の時代の中でも、何気ないことで笑い、ご飯を食べて、愛し合い、喧嘩をして…。
終盤になるまで、戦争映画によくある悲劇的なドラマは起こりません。
どこまでも日常の生活を(それは死すらも唐突に訪れる日常な訳ですが…)懸命に生きる人々を描いており、この映画を観ている者全てに、自分の人生について見つめ直すきっかけを与えてくれます。
淡々とした日常が続いて続いて…。
だからこそ、終盤に押し寄せる悲劇の連続が効いてきます。
本当に衝撃的だった…。
この悲劇からエンディングまでの展開で、心を揺さぶられない人が果たしているのでしょうか?
ただ1点個人的に気になったのは、上映時間の長さ。126分はちょっと長く感じましたね。もう少しコンパクトに纏めることも出来たのでは?と思ったりもしたかな。
とはいえ、この映画。
どれだけ言葉を尽くしても尽くしたりない、そもそも言葉でこの映画の感動を伝えること自体が間違っているのだと思います。
ただ観ればいい。そこから各々がなにかを受け止め、考えればいい。そういう映画です、これは。
8月9日が来るたびに、この映画のことを思い出すのでしょう。
夏とともにやって来る、蝉の鳴き声と白い入道雲はいつの時代も変わることがないのだと思いながら…。
161112『この世界の片隅に』感想
原作も前評判も全く触れぬまま、只もう7年も前に片渕須直監督の『マイマイ新子と千年の魔法』に受けた超ど級の衝撃と私的に決して揺るがぬものとなった彼の才能への絶対的な信頼だけを頼りに、この度問答無用で前売り券、絵コンテ本、ぱらぱら漫画特典などを次々と買い漁り、我ながら無謀過ぎる先行投資をやってのけた(※だからクラウドファンディングされた方々には只々頭が下がるばかりです)末に、本日劇場公開初日にて無事劇場鑑賞を済ませて来てやや半日が過ぎようとするタイミングでの、以下無理にでもまとまった感想を書き残そうという試みなのだが、大東亜戦争(以下先の大戦)をその日常をもって闘い抜いた末に生き延びる運命を更に強いられ続けた人々の気丈であり続けること、互いに思いやり支え合い決して裏切らず、皆が笑って生きられる日常風景を夢見ながら、この夢と絶えず向き合い続け、自らこれに負う所を大きく抱くことを至上の生甲斐と、自然と受け入れられる快い心持ち、こういった豊かに生き続けることへの貪欲さと言う意味での精神の崇高さの素晴らしさ…といったような、言葉にまとまり切らないテーマ性を私的に直感で抱かされ、まずコトリンゴの歌で飾られたOPクレジットの時点で訳も無くしんみりとできて、次にすずを庇った夜勤明けの義父がまさかの…の場面でまんまとフライング号泣への忍耐を間抜けにも強いられ、しかし玉音放送直後のすずの「そんなん覚悟の上じゃないんかね、最後の一人まで闘うんじゃなかったんかね、まだ左手も両足も残っとるのに…!」続いてすずのモノローグで「飛び去っていく、うちらのこれまでが、それでいいと思ってきたものが、だから我慢しようと思ってきたその理由が…」の流れの一連のシーンや、最後の広島原爆被災孤児との出会いのシーンでは、そしてこれに続くEDで物語られるその後の家族模様は、私をして、「え、劇場で号泣しまくった後、恥もへったくれ無く無惨を極めた顔とか顔とか顔とかは、偶然劇場に来る前立ち寄った郵便局で貰っておいた年賀状販促ポケットティッシュがあったからこそ窮地を免れたが、今回のような超ど級の傑作に泣かされまくった際の劇場鑑賞ってこんなにもリスキィだったのかよふざけんな(喜)!!!」と大真面目に思わしめたりもしたのであった。ここまで映画に泣かされたのは初体験だ。巧妙を尽くした完成度の高過ぎる映画、これを作った才能によって泣かされる時、人は自らその理由を瞬時に悟ることは愚か、直感によって予感したり窺いかけることすら許されない次元で、只々我知れぬまま込み上げてくるまま動揺させられるままなされるがまま、塩分を無駄にするしかないのだなと痛感させられた。
『この世界の片隅に』は、いわゆる反戦映画の枠に収まる筈も無い、「人間とは、いかなる不条理、悲劇、悲惨を極め尽くした状況にあっても、心の豊かな日常を標榜し、これに喰らい付き続け、貪欲であり続けられる生き物だ」とまざまざと表現し尽くした、人間愛の、人間に希望を見出させる、究極の人間肯定の映画である。私がここで言う「豊かさ」とは、先の大戦後の日本が失った公けと個人とへの尊厳の均衡の感覚、この近代以降の国民国家的な社会生活における日常的なさりげない幸福感覚を根底から支える基礎的なモラルを獲得できている人格的な麗しさをもってして初めて営みが可能なもののことであり、これが、いわゆる大東亜共栄圏を標榜し大東亜戦争に突入するまで追い詰められ本土総力戦や大衆の困窮を極めるまで、皇国とこの民主主義の尊厳を守るため故に疲弊させ尽くしてしまったといった、ほぼ必然的な、不可抗力的な、不条理を極めた敗戦に及ぶまでの歴史的事実の総体への是非を問うようなテーマ性に伴う押し付けがましく教条主義的でやや不快にあざとくもあるこれに特有の暑苦しさが一切排除された『この世界の片隅に』においては、まずもって愛国とか反戦とか反核とか民主主義とか近代保守とか愛郷心とか云々する以前の問題として、例えば仮に戦前、戦中、そして戦後に繋がる生々しくも厳然とした連続に他ならなかった全ての局面において、人間はその都度目先に迫られる穏やかさや脅威への動揺と豊かに向き合い続けてこれたかもしれない、こういった理想を諦めさせないでくれる程度には、或いはこれをファンタジーとして説得力を持たせる題材たることに不足が無い程度には、これだけをもってでも充分に快く肯定し、尊び、誇りを持って讃えられる存在と言えるのではないかと観る者をして問いかける力を見事に獲得した傑作だと思えるのであり、裏を返せば、こういった豊かさと疎遠であり始めて久し過ぎるほぼ全ての鑑賞者に対する、心の底からの癒しを与える超弩級にえぐい救済の傑作とも思えるということである。ここまで優しい創作思想哲学に貫かれ、且つ完成度の高い映画作品を、私は『この世界の片隅に』を置いて他に一切知らない、と本気で思えるほど感動できた。
この傑作の名誉のために書いておきたいのが、例えばすずの初恋(?)の相手たる水原哲の「わしぁあ英霊呼ばわりは勘弁じゃけぇ、わしを思い出すなら笑うて思い出してくれ」や、玉音放送直後にすずが畑まで飛び出して嗚咽する手前のCUT1290で朝鮮愛国歌が蛍の光で知られる曲調で鳴り響く中で太極旗が掲げられ始めた情景描写があったりすることは、決して『この世界の片隅に』を反戦映画とか自虐史観映画と愚か過ぎるレッテルを貼る根拠足り得ない。それらは収拾され感慨深く把握され作品の臨場の構造に組み入れられた情景描写の一つ一つに過ぎない。ならば同じ作品の内にそれらと並列して、例えばすずの「海の向こうから来たお米、大豆、そんなモンでできとるんじゃなぁ、うちは…、じゃけぇ暴力にも屈っせんとならんのかね」など、さも日本古来の農本主義を思わせるかのような保守的な思想を象徴する台詞が丁寧に語られる部分とも向き合った時、その陳腐なレッテル張りは整合性を維持できない。そもそも『この世界の片隅に』の原作力、そして映画監督の才能のレベルが、そんな見え透くような貧相な議論上の似非思想の一貫性への拘りなどを一切眼中から排除し切ってしまっている、言うなれば、それだけ教養の生育過程が豊かだった、各が違う、育ちが良いってだけの話で、こういった傑作を生み出す才能の前では、馬鹿は馬鹿らしく恥を知って謙虚たれる機会を得られるだけ儲けモンってことである。そして、まぁ無いとは思いたいが、最後の孤児を連れて帰る件に関して、冒頭のひとさらいよろしくこれは美談を模した誘拐とか軽率な判断の類と批判する向きがあるかもしれない。一つに、当時の原爆被災直後の状況で、あのなりの子供が独りで野垂れ死に寸前のボロボロの体で地べたに落ちて汚れたものを平気でがっつく状況にあった場合、少なくともこの子供の事情からする限りは、これを連れて帰って介抱し面倒を見続けてやるお節介を焼くことは何ら迷惑にも不都合にもなりはしないと、原爆による広島の文字通りの焼け野原を前にして、誰もがそう認識せざるを得なかった、つまりそれが幾らでも通らざるを得ない社会状況が歴然だった。又一つに、時代考証的なリアリティは別としても、すずは右手と晴美を失った精神的且つ身体的ショックで間違いなく流産だろうし、径子も晴美を死なせた自責と向き合う苦悩に耐えることに精一杯だったし、周作をはじめ北條家の面々はかえって生き延びて遺された苦しみを負い続けなければならなくなった彼女らの不遇を只々気丈に振舞って寄り添って支えてやらねばならないと、表面的に決して描かれも語られもしないところで献身を尽くしていたのであり、すずの広島の実家では母が犠牲になり、妹も被爆しほぼ助からない運命に蝕まれ始まる中、真偽定かでない恋沙汰にうつつを抜かせる只一つの救いに依る皮肉の犠牲となりはて、さて果たして、ここまで日常の骨格がボロボロにされ尽くしてしまった北條家のその後には何らかの救済、報いが、せめてファンタジーの体裁上、施されなければ釣り合いが取れない、どう劇伴や絵柄のほんわかさの演出で取り繕っても、ほぼ生き地獄確定路線なのであって、そこにきてあの原爆被災孤児とすずらとの出会いはそういったお膳立ての上で全て必然を持って結ばれる、起こるべくして起こった喜ばしいアクシデントの他ないのだ。
又最後に、『この世界の片隅に』は、広島の原爆を機に呉での日常を取り戻し生き延びた人々を描いた、だからといってこれが本質的に生き延びた人々の卑怯さを忍ばさざるを得ない下らない物語などと卑下されて良い筈も無い、事実、冒頭に述べた私的なテーマ性の印象のように、『この世界の片隅に』は、生き残ってしまったが故の苦しみとも気丈に振舞って心の豊かさに貪欲であり続けることを忘れず生きようと必死であり続けた群像の理想像を描き切ったのだから、彼らに限っては決して英霊を断絶された歴史や価値観、社会像の隔たりの対岸から只突き放して大仰に、形式的にだけ奉ったり、場合によっては後ろ指を差して当時の日本国民を惑わした天皇や軍部こそはアメリカ様に打ち負かしてもらってむしろありがたがるのが当然の報いなどと裏切りの非道を尽くしたりすることとは全く無縁である。繰り返すが、『この世界の片隅に』は大東亜戦争末期の大衆日常的なこれ特有の戦争模様に材をとった究極の人間肯定を謳う超ど級の傑作である。ようやく感想が言葉らしい言葉に落ち着き始めた感がある。宮崎駿の『もののけ姫』以来の、これに優るとも劣らない傑作を前にした困惑を覚えている。ここまで述べておいて今更だが、これだけの傑作を前にすれば、最早私の鑑賞の感覚など全く無力だ。無力感でいっぱいだ。只確かに言えることは、私は映画を観てあれだけ館内で大量の涙を流しながら嗚咽と呼吸の乱れを他から感づかれないよう必死になったことは初めてだったし、多分今後も無いことだろう。未だ私は『この世界の片隅に』を図りかね過ぎているというのが率直なところではないか。んなことはどーでもいいのだ。『この世界の片隅に』という傑作と生きて出会うことができた喜びの余韻に酔いしれるだけ酔いしれていたい。この点で今しばらく馬鹿になり続けていたい。『この世界の片隅に』に敬服する以外何も無いのが今の私の率直な感想の全てである。
嗚呼・・・わたしも平和ボケしているなと。しっかり生きなきゃいけないなと。
1945年の広島や呉のあたりを舞台に繰り広げられる日常が、描画を得意とする主人公を中心に描かれる。
異性の幼馴染が嫁ぎ先に訪ねて来たり、ふとしたことで遊郭の世界を少し覗いてみたり戦争の間接的な影響を受けながら時折綻びを見せる程度だった日常が、徐々に直接的な影響を受けてどんどん崩れていく。空襲の頻度が多くなり、強度も強くなっていく。
原爆を投下された後、ポツダム宣言を受諾して戦争は終了した。
能年玲奈さんの平坦な声が作品の主人公にハマっていて、おっとりとして平和に続くかのような日常が強調されている。形を変えながらも終わらない日常に生きる登場人物から、強い生命力を感じた。
片腕が消し飛ぶ衝撃ヤベー
いやー、ほのぼのとした絵柄に完全に騙されましたわ。
親戚の女の子が爆弾で消し飛んだり、原爆被爆者が描かれていたり、エライエゲツない描写が多いやん。
前半は可もなく不可もなくといった作品で、正直つまらなかったんだけど、すずの右手が消し飛んだ瞬間「え?....マジ?」と、ヤベー作品見ちまったなとおもた。
そこから、完全に流れが変わったね。
wikiに「戦時下の困難の中にあっても工夫を凝らして豊かに生きる姿を描く」と書いてあったけど、作品の本筋からズレてる。
書いた人は何を見ているんだって感じ。
戦争の悲惨さに負けずに、片腕を失いながらも幸せを掴もうとする少女に感動する作品だった。
小中学校の歴史の勉強に使える良作でした。
戦争は絶対にいけない
アマゾンプライムで鑑賞。
広島で暮らすおっとりの女の子のすずさんのお話。
あるところで出会う男性と出会い結婚する。
結婚してから広島市から呉に移る。
呉で暮らす旦那さんの家族と住む。
旦那さんのお姉さんの子供と一緒にいるときに子供が不発弾に巻き込まれて死んでしまう。
そこから自分を悔やんでしまう。
腕も無くしてしまう。
戦争では結局負けてしまう。
玉音放送が流れる。
何のための戦争だったのか?
戦争はやってはいけない。
こんな雑な脚本でいいの?
最初は「こんな雑な編集でいいの?」というタイトルだったのだが、「編集が雑というのは違う」という指摘を受け、それもそうかと思ったので書き直し。
この映画が好評で超ロングランになっていたのは知っていて、いつか見ようとは思っていたところ、連続ドラマが始まりそれがとてもとても良かったので、たまらず原作を購入。
平均して月に15冊前後の小説を読む自分が、原作コミックを購入して以来、他の小説がまったく手に着かなくなるほど原作にハマった。
その余勢を駆ってレンタルで本作を見たのだが…
あれ?こんなの?
同じくドラマと原作にどっぷりハマっている妻は途中で寝てしまうし、自分も首を傾げながら見終わった。
まずエピソードの取捨選択がおかしいのではないか?
特にリン絡みのエピソードはほぼごっそり、最初に出会うエピソード以外は全面的にカットされている。
リンの話はすずの内面、そしてすずと周作の夫婦の関係に密接に絡むので、これを省略したら話が成立しないじゃないか…とは思うのだけど、まあどこを取捨選択するかは製作者の腕の見せ所でもあるので、カットしたこと自体に文句を言うつもりはない。
が、カットしたくせに後にすずが独白で「リンさん」と語りかけるシーンがある。
「居場所」についてリンに問いかけるのだが、そのリンのセリフは回想で唐突に出てくるのみ。
大空襲の後、リンが周作にリンの安否確認を頼むシーンがある。
そしてその後、リン絡みの話は放置(笑)
…なんなのこれ?
つまり一言で言うと「ほれ、やっぱりリンはカットできなかったんじゃん」なのだが、これはあたかもリン絡みのシーンを撮影していたのだが、後に編集でカットした時に対応するシーンの方はそのまま放置して完成させちゃった、という体に見えてしまう。
それが最初のタイトル「雑な編集」に繋がったわけだが…
「雑な脚本」が正しい表現なんだろうな。
シナリオという点では他にも気になるところはいくつかある。
終戦の玉音放送を聞いた後のすずの慟哭だが、あのセリフをあのように改変した意図が分からない。
あのセリフでは、単に食料自給率が低いから負けた、としか聞こえない。
原作どおり太極旗が掲げられるシーンを採ったということは、植民地支配のことを意味していたと思われるのだけど、植民地に食糧を供出させていたから暴力に屈しなければならない、という理屈は飛躍が過ぎて意味不明。
原作どおりの意味のことをすずに言わせたかったのなら、原作のセリフに勝るセリフはなかった。
解釈の違い、政治的意図、理由は何でも良いが、すずの慟哭に違う意味を持たせたかったのなら、太極旗は出すべきではなかった。
8/6の朝の径子との会話も、径子の途中のセリフをばっさりカットしたおかげで、セリフのテキストだけでは径子がすずに「とっとと広島に帰れ」と言っているかのようなセリフになってしまっている。
あの径子の一連のセリフは、すべて次のセリフが前のセリフを受けて繋がっているので、途中を省略したら意味合いやニュアンスが大きく変わってしまう。
ドラマでは一部のセリフの順番を入れ替えていたが、これでもニュアンスがかなり変わって聞こえた。
それでもドラマの方は「径子にはっきりとすずを引き留めさせたい」という意図が分かるので全然良いのだが…
声優の演技でカバーしていたが、あの猫なで声は径子のイメージとかなり違う。
同じことは終盤、終戦後にすずが近所の主婦と「記憶」について語り合うシーンにも言える。
そこも最後の「晴美を笑って思い出す」だけを残してその前のセリフを省略してしまうと、すずがもう早々と戦災経験を過去のものにしてしまったような印象を受けてしまう。
当初は小規模上映だったので、どうせ原作のファンしか見に来ないだろうから、リンのこともセリフの省略も、「あとは観客が脳内補完してね」ってつもりだったのだろうか。
原作をノーカットでやる尺はないのは分かるが、取捨選択が必要なのは分かるが、リンの例のように、1本の映画作品というより原作の歯抜けにしか見えないなぁ。
もし良かったらソフトを買おうと思っていたが、これは買わない。レンタルで見ておいて良かった。
近く完全版?が公開されるそうだが、これも多分見に行かない。
のんの声はとても良かったし、無神経なセリフの省略も脳内補完すれば楽しめるので、完全版のソフトはもしかしたら買うかもしれないが、その前にレンタルで見てもう一度判断することにしよう。
広島で育ち被爆経験者の祖父母がいる私の感想
広島の呉という街が空襲で街が一面焼け野原になり、沢山の人が亡くなって焼け野原になった時、その瓦礫を踏みながら主人公のすずは、妹と恋バナしてました。妹の好きな人がイケメンなのかどうかとか。
このアニメのレビューでは、涙が止まらないとか戦争の悲惨さを、目の当たりにしたとか言ってる人が多いですが、呉の、空襲の写真は見たことありますか?空襲のあの大きな音を体験し、いつ死ぬか分からない恐怖を想像したことありますか?私は経験してませんが、広島で育ちそんな話を沢山聞いてきたので、あの空襲の後、あの焼け野原の瓦礫を踏みながら恋バナしてる主人公にビックリしました。
まぁ、アニメだから有り得ないことが起こるのは仕方ないかとその時は思ったけど、レビュー見たら大泣きしてるしてる人が多く、戦争の残酷さがどうとかって書いちゃってる人も多いのでそれに、またまたビックリ。日本は平和ボケしすぎてますね。。悲しいです。
他には、主人公のすすが、島の高いところで街の景色がよく見えて、綺麗なので、その景色をスケッチしているシーンがありました。その時代ではそのような絵を描くとスパイだとみなされ禁止なので長官?の注意を受けてました。
それを知ったすずの家族は、すずはドジだねぇとお腹をかかえるほど、大爆笑してました。
そのシーンについても、、
実際、私の祖父の友人は広島の大崎上島という島ですずと同じことをして、スケッチが見つかった時には捕まり1週間帰って来ず帰ったきたときには暴力を振るわれて身体中アザだらけになって帰ってきたそうです。目もあかないくらい殴られて帰ってきたとか。その話をしていた時の祖父の表情は今も忘れられません、、辛い思い出したくない思い出だったのだと思います。
でも、アニメの中では笑い事になってるし、瓦礫踏みながら恋バナしてるし、違和感の連続でした。こんなに、甘ったるい内容を見て戦争の悲惨さを目の当たりにしたとか泣いたとかそんな事を言ってる人が多いのは、被爆者の話を聞く機会が広島以外では極端に少ないでしょうし、戦後70年経った今被爆経験者も少なくなりすぎて本当の戦争の経験を次の時代に伝えることができなくなってきた時代なんだなと感じました。
焼け野原で沢山の人が亡くなった中で瓦礫を踏みながら恋バナをするほど呑気だなんて、アニメだとしても不謹慎。最近でいう、東北の震災で瓦礫のどこに死体があるかわからない状況で妹の好きな人がイケメンか話してる状況ですよ、今そんなアニメ作ると反感買うから流せないでしょう?
ただ、他にもレビューをみると、このアニメは、世の中が戦争をしていても、1人の女性としてこんな生活もあるんだよ、ということがわかり感動したと書いてる人も多い。
確かに、戦争ものって、戦闘機使って戦ったり、残酷すぎて、目を塞ぎたくなるようなシーンが多かったりとそんなものばかりなので、ひとりの女性の目線て中々着眼点がいいと思ったりもする。
でも。じゃあこちらも1人の女性として考えた結果女性としてもすずみたいな人が嫌い。トロくてのろまで自己中。悪気がないから何でも許されてしまうけど、空襲がひどい時に走って外に出て、それですずを旦那さんが追いかけたりするんだけど、旦那さんの命のことは何も考えないそういう行動とか、自分は死んでも構わないんでしょうけど、旦那さんが追いかけざるを得ないので他人の命のこと考えてほしい。アニメのキャラクターに向かってまじめにコメントするのも馬鹿馬鹿しいのですが、ひとりの女性として強く生きていく姿がどうとかってゆう感想が多いので一人の女性として、こちらもツッコミどころ満載なのでツッコんでます笑
全ての行動がトロくてすずみたいな人が現代で同じ会社にいてもムカつくくらいなのに、まさかあの戦時中にあんなトロくて世間知らずな奴いたらお荷物でしかない。
なのでひとりの女としても無理だと思いました。
結果、アニメとしてもひとりの女としても評価出来ないです。
人はどんな時でも逞しく生きていける
通常スクリーンで鑑賞。
原作マンガは未読。
太平洋戦争中、呉に嫁いだ主人公、すずさんの日常を通し、普段は気づいていないけれど、いつもそばにあるかけがえの無い大切なものを、繊細な優しいタッチで描いており、戦争を題材にしているのにも関わらず、悲しい出来事は起こるものの、最後には心が暖かくなっているような作品でした。
戦局の悪化に伴って食糧配給もままならなくなる中、工夫して朝昼晩の食事を拵えたり、暑くても寒くても畑で野菜を育てたりと日々の家事をこなしながら、すずさんは男手が無くなった北條家を持ち前の大らかさで懸命に守っていました。
ですが、ささやかな日常に空襲警報が鳴り響き、爆撃によって見慣れた景色が失われていきました。戦争がもたらす数々の理不尽によって大切なものを踏みにじられ、奪われてしまいましたが、それでも生きていこうとする姿に感動しました。
殺伐とした世情でも朗らかさを失わなかったすずさん。生来の性格なのかもしれませんが、「笑顔を無くしてしまったら終わりだよ」と教えてくれているような気がしました。
普段は当たり前のようにそこにあって、ついつい見過ごしがちになってしまいますが、私たちが営んでいる暮らしや日常こそがかけがえの無い宝物であり、それを必死に守っていくことが、私たちの生きていく意味であるように感じました。
それが簡単に軽んじられたり蹴散らされてしまうことにこそ怒り、涙し、それを打破するための強さを学ばないといけないのかもしれません。今のような社会だからこそ、すずさんのような生き方が求められているのかもなと思いました。
どんな困難な状況にあっても、どうにもならなさに悔し涙を流しても、逞しく生きていくことが出来るのが人間であり、その素晴らしさを高らかと歌い上げた人間賛歌の名作だなと感じました。ずっと大切に観続けていきたい。
[余談]
観ていてほんわかとした気持ちにさせられるすずさんのキャラクターを、声優初挑戦ののんが、初めてとは思えない演技で表現しているなと思いました。女優として映画などに出にくい状況となっているのが本当に残念でなりません。
[追記(2019/08/03)]
私の通勤路には機銃掃射の痕のある塀が残されており、それを見る度に当時を生きていた市井の人々の暮らしに想いを馳せてしまいます。空から爆弾や銃弾の降り注ぐことが日常で、生きるか死ぬかと云う状況に震えながら過ごす。なんと恐ろしくて、理不尽な日々なのだろうか。
7年前に亡くなった祖父からは戦争体験を何度も聴かされました。海軍の水中測敵兵だったと云う祖父は、終戦間近の頃海軍基地での演習中に空襲に遭い、命からがら爆発と炎の中を逃げ回ったそうです。炎に巻かれ右腕が千切れたまま走っている同僚を目撃したと話していました。
[以降の鑑賞記録]
2018/07/22:Blu-ray
2019/08/03:NHK総合
※修正(2024/04/19)
アニメだからこそのリアル
戦争には多くの人が関わる。
戦争を起こす人、
戦争に出向く人、
そういう人たちを待ちながら、日々の生活を営む人。
この映画は最後の人々を描く。
前半はまるで天国のようなのどかな田舎の風景。
時代が時代だけに、顔も見たことがない相手との結婚、なんて風潮もあれど、それでも親切な義理の家族に囲まれてほんわかすごしていたすず。
しかし死の淵ギリギリまで追い詰められ、広島では家族をなくしたすずはある日ふとしたきっかけで、何も知らずにボーッとしたまま死にたかった!!と泣き叫ぶ。
人の心や行動は、つじつまが合う合わないというものではない。
だから映画やドラマは無理やりつじつまを合わせる。
しかしこの映画ではつじつまを合わせないまま、人が生きるままにする。
この人の自然な行動を、演じられる俳優がいるだろうか。
このリアリティを再現できたのはアニメだからだろうと思うし、逆にこれをアニメでやろうと考えた製作者は何を思ってアニメでいこうと思ったのだろう。
反戦をあからさまに叫んでいるわけではないが、これを観て、まー仕方なくなったら戦争
もアリだねなんて絶対に言えない。こんな状況で、呉の彼らみたいに強く、笑って過ごせる自信なぞない。地獄の底で。
ただただ、恵まれた自分の境遇に感謝するのみ。
ああ、本当によかったこの時代の日本に生まれて。
この世界の片隅に、うちを見つけてくれて
映画「この世界の片隅に」(片渕須直監督)から。
学校の歴史では学ばないが、太平洋戦争で被害を受けたのは、
原爆投下された「ヒロシマ」や「ナガサキ」だけでなく、
全国各地で、空襲を受けた海軍・陸軍の拠点は、凄まじいものがあった。
作品舞台の「広島県呉市」は「戦艦大和」を造り上げた海軍の拠点として、
敵国から集中砲火を浴びた場所である。
終戦直前の空襲は、特にはげしく、1日に何十回と繰り返され、
その様子は市民らの「警報、もうあきた」の台詞で表現されている。
そんな中、タイトルの「この世界の片隅に」の意味が知りたくて、
メモ帳片手に、観続けた。
主人公の「すず」に、こう投げ掛けた幼なじみの台詞がある。
「お前だけは、最後まで、この世界で普通で、まともでおってくれ」
戦争で、いままでの生活も人間関係も少しずつ荒んでくるが、
そんなことに負けず、お前らしく生きて欲しい、
それが、みんなの励みになるから・・と、言いたげだった。
しかし、タイトルの「この世界の片隅に」は、作品の最後に現れた。
「この町では、皆誰かを亡くし、探している」
「周作さん、ありがとう。この世界の片隅に、うちを見つけてくれて。
ほんで、もう離れんで、ずうとそばにおってください」
この時代、どの国に産まれ、誰と出会うか、ではなく、
この世界の片隅で、誰かに見つけてもらえて嬉しい、という気持ちが
伝わってきて、ホッとした。
いろいろな大切なものを失ってきた「すず」が呟いた台詞、
私の心にも響いたなぁ。
こどもも見たほうがいいかも
派手な演出などはなくごく普通の子が淡々と日常を過ごす中で
大切なものがいっぱい詰まった映画
戦争のグロいとこは見せないけど余計にひしひしと迫る何かが大きくなっていく感じ
それでもなにげに絵を書いただけなのに怖くなる
大事なものをなくして心が痛む
ただ嫁ぎ先がよかったのが救われるし山の緑がきみどり色で戦争の最中なのにさほど暗さを色で表現してないのがいい
モノのない中でも懸命に生きる人間強さを見た
きろく
私がこの映画を鑑賞したとき、ほんとに何も情報を入れないで戦争を扱った作品ぐらいの認識観たので、
すずさんが歩いている街が広島だとゆうことに気がついて絶望的な気持ちになった。
すずさんを含めて画面の中を歩いている人達は何も知らずに暮らしているけど、観ている私達はこの先この街がどうなるか知っている。このことがすごく悲しかった。
しっかり面白くて笑っちゃうところもあって、人がしっかり生きている姿ってとても美しくってよかった。
戦争の中を生きるすず。
第二次世界大戦の中を生き抜いたすずの物語。
広島に住んでいたのんびり屋でマイペースなすずは、ある日呉の嫁として嫁ぐこととなる。
知らない土地での生活の中でもすずのマイペースは変わらないと思っていたけど、幼馴染の男が来たシーン。久しく自分の気持ちを隠していたのにそれが自然と溢れ、それを察した夫の行動に人間模様を感じた。
それぞれの気持ちが切なかった。
そして空襲が勢いを増し、すずははるみちゃんを救えず右手を失い、辛い生活は続く。大好きな絵も描くことも出来ず、義姉に責められ、辛い。辛い中遂に夫に気持ちを吐き出し、そんな中広島に原爆投下。
自分の故郷が目の前であんな風になる事を想像したらもう、想像できない。
でも最後には自分の場所を手に入れ、生きていく。
初見は思ったより微妙な感じだったけど、1シーン1シーンを振り返ると凄くグッと来る、心に残る。照れたり笑ったり、心が揺れたり好きになったり、当たり前の事が当たり前である幸せを感じさせられる。
単純に面白いからみて!とは言えない、スルメ映画。
淡々の日常が突如と…
淡々と過ぎる一般的日常が戦争の影響が、ひたひたと押し寄せ、呉の町が戦火に落ち、そして……。
やりきれない変わり果てた日常。
平和教育するよりも、子どもや小学生からみせてあげたい。
今日も明日も
生きていかないけんのですけ。
すべてはこの言葉に集約されてるように思いました。
元々、こうのさんのお話が大好きで、この作品も読んでいました。戦争映画というカテゴリーでありながら、日々を懸命に生きていくすずさんの姿は現代の私たちにも通じるものがあると思います。
存命の祖母が戦中は某軍港に住んでいて、B29が焼夷弾を落としにきた話や防空壕に逃げそびれて側溝で耳を塞いでやり過ごした話など聞いていました。でも、それより驚いたのは空襲の後に普通にヨモギとか食べられる草なんかを採って帰っていたということです。
祖母が、食べていかないけんけねぇ、と言っていたことが思い出されました。
戦争はもちろん悲惨で、二度とあってはならないことですが、そんな中でも懸命に生きていこうした人たちがいて、今の自分があるのだということに改めて気付かされました。
りんさんと周作さんのお話は完全版(長尺版)で描かれるそうなので周作のノートの話や二河公園の花見のシーンなど今から楽しみです。
能年玲奈さんの演技はとても良かったです。
『ほいで、ここはどこねーーー!?』と叫ぶシーンは私的必見シーンです(笑)
戦争の皮を被った青春譚
この作品は「戦争」に本質がある訳ではないらしい。
実はたんなる一田舎娘の青春譚なのでせう。
仮に戦争要素がごっそり抜けていても、普通に物語として成立していたやうに思われる。
この作品には戦争映画特有の切実さがない。
『野火』『永遠の0』『火垂るの墓』『はだしのゲン』などを見て感ずるあの呼吸器が締め付けられる切実感がない。それはやはり距離感の問題であらう。
『この世界の片隅に』はまさに戦争の片隅に位置する人々の話で、戦争映画によく漂う腐臭と吐き気、醜悪さ、絶望、目を背けたくなる感がまるでない。始終、流れるやうな綺麗な筋書きである。だがそれでよい。おかげで何度も観れる。
舞台は第二次世界大戦中の広島。
いかにも虐げられし人々の描写がなされそうだと予感せられる。が、蓋を開けてみるとそんな事は殆どない。普通(とはいかないまでも、それなり)に暮らしは成り立っているやうだった。
その上で勝手な縁談、若い男女が抱く感情、周囲との人間関係、葛藤、ウーマンリヴ精神これだけ素材が揃っていれば別に戦争映画でなくてもよい気がする。だが、ここに戦争といふスパイスが加わることによって我々はある種の感動パターンに嵌められて涙してしまうでせう。
戦争はあくまで付加価値なのかもしらん。
「従来の戦争映画とは違う」というより、「従来の青春譚に戦争要素を染み込ませただけの映画」であらう。
大好きです。
〝感動する〟〝泣ける〟そんな言葉だけで語れる映画ではないと思います。
戦時に生きる人々の日常を淡々と描き、その裏で刻々と悪化する戦況をちらつかせ、観ている観客にはもう嫌でも分かっている、避けられない結末へとカウントダウンしていく残酷さ。ありふれた日常の愛おしさと戦争という非日常の対比。
徐々に困難になってくる日常生活や、繰り返される戦火という理不尽な暴力の中に身を置くと、それに対する疑問や怒りまでも麻痺して戦争というものすら日常になってしまう。生きていくための日々の営みは変わらなくとも、物事の価値観や優先順位は知らないうちに別のものにすり替わっていく。
愛らしい絵でほのぼのと描かれる日常は「戦時中でも小さな幸せを大切にし、笑顔を絶やさず前向きに生活している人達」というよりは、辛い現実の中で「せめて笑おうとしていた」人達の生活だと思う。糸が切れたように突然泣き崩れる登場人物達がそれを物語っているように感じた。
露骨に悲劇的な描写は少ないが、細やかな日常の中にしっかりと悲劇は潜んでいる。
原作を読んだり太平洋戦争史を予習してから観れば劇中に刻まれる日付の意味も深まると思うし、この映画を海外で上映した時の反応も気になる。
個人的にはジブリ作品なんかよりもずっと、後世に遺すべき傑作だと思います。
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