この世界の片隅にのレビュー・感想・評価
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背負いきれないやるせなさ
第二次大戦の戦中から戦後の国内の庶民の生活を描いた映画だ。広島市の江波地区と呉市を行き来しながら物語が進む。
同じ設定で真っ先に思い出されるのは新藤兼人監督の「一枚のハガキ」(2011年)だ。ヒロインを演じた大竹しのぶが「つかあさい」という広島弁を使っていたので、やはり広島県が舞台だったと思う。山奥の村には戦争の直接的な被害はやってこないが、村の男たちが一人、また一人と兵隊にとられ、そのたびに村人たちが「勝ってくるぞと勇ましく」ではじまる「露営の歌」を歌って送り出す。働き手を失った村は徐々に疲弊して、他との行き来も殆んどなく、ほぼ自給自足、最後はただ生きているだけの生活になる。
山田洋次監督の「小さいおうち」(2014年)も、やはり戦前から戦後までの庶民の生活を描いた作品だが、こちらは戦時下の不倫や、庶民がいつしか国家の大義名分に精神までも侵されていく様子を描いたドラマだ。戦時下でも普通の暮らしが続いていたことをこの映画で初めて知った。主演した黒木華がベルリン映画祭で銀熊賞を受賞したのは周知のところである。
降旗康男監督の「少年H」(2013年)も同じく戦前から戦後の国内の家族を描いた作品で、主演の水谷豊が、国家の大義名分に踊らされないリベラルな精神の持ち主を好演していた。
今年になって日本で公開されたアメリカ映画「リトル・ボーイ 小さなボクと戦争」もやはり太平洋戦争の末期におけるアメリカの小さな町の庶民の生活を描いた作品だ。
パッと思い出すだけでも4つの作品がすぐに浮かぶくらいだから、第二次大戦時の庶民の暮らしを中心に描いた映画はまだたくさんあるかもしれない。
これらの戦争映画を観て了解するのは、庶民にとって戦争は天災地変と同じようなものだということだ。敵も味方も理念も大義名分もイデオロギーもない。
だんだん生活が苦しくなり、周りの男たちが戦争に駆り出され、学校は教練所となり、庶民はいろいろな役割を与えられる。そしてある日たくさんの飛行機が飛んできて、爆弾を落とし、家が燃えて家族が死ぬ。友だちが死ぬ。誰も助けてくれない。やるせなさで胸がいっぱいになるが、黙って涙を流すのだ。
或いは、遠くの国で新型爆弾がうまく爆発して甚大な被害を生じせしめたことを知る。やったと思う。しかしあまりにもたくさんの人が死んだことを知って、やるせない気持ちになる。
この映画の主題歌としてコトリンゴが歌う「悲しくてやりきれない」は詩人サトウハチローの歌詞に自殺した加藤和彦が曲を書いた名曲だ。コトリンゴのとても落ち着いたミックスボイスが「悲しくて悲しくてとてもやりきれない このやるせないモヤモヤをだれかに告げようか」という歌詞を際立たせる。この歌の「やるせない」という歌詞がこの映画のキーワードだと思う。
庶民にとって戦争はあまりにも理不尽だ。かといって誰を責めたらいいのか。自分自身だって、ついこの間まで大本営発表に日の丸を振っていたではないか。誰も責められないのかもしれないが、不幸の重荷は確実に自分を待っている。主人公すずが敗戦を告げる天皇のラジオ放送のあとで慟哭する姿は、「一枚のハガキ」の大竹しのぶが慟哭したのと同じで、行き場のない悲しみと苦しみを抱えすぎて、叫ばずにはいられなかったのだ。夫から「すずはこまいのう」とつくづく言われるほど小さなすずの肩に、言葉にできないやるせなさが重くのしかかる。やるせない、兎に角やるせない。
呉の空襲、焼夷弾や時限爆弾、8月6日午前8時15分のリトルボーイの爆発、天皇のラジオ放送と、我々が知っている通りに物語は進む。映画の中ですずが描いた広島県産業奨励館の絵が何度も出てくる。それが原爆ドームになってしまうのは、知っていても胸が痛くなる。
たくさんのものを失くしてしまったすずだが、いまは思い出の橋の上にいる。映画の冒頭で子供のころのすずが、ある男性と出逢った橋だ。その男性と一緒にいる。いまはすずの夫だ。賢くて心の広い夫だ。背負いきれないほどのやるせなさを抱えたすずを、夫の愛が優しく包む。映画の最初から、すずはずっと夫の愛に包まれていたのだ。
どこにでも宿る愛
イデオロギーなど関係ない、市井の人々の戦争を愛を持って描いた作品。
ラストで戦争孤児を、当たり前のように受け入れるすずと周作とその家族。柔らかい広島弁に、涙が止まらなかった。
誰だって戦争は嫌だ。だけどこの作品はくだらない政治屋や自称インテリに、わかった風に「反戦映画」などと言われたくない。あさはかなイデオロギー、いや空疎な言葉で汚して欲しくない程の、珠玉の愛の物語。
母のおにぎりが、無性に食べたくなった。
絶賛されるほど?
良かった
何かが溢れ出して来る
開いた口が塞がらない。
見た後にしばらく言葉が発せないっていうのは初体験で、号泣するわけでも、激しく心揺さぶられるわけでもなく、じんわりとぶわ〜とこころに広くしみていく感じ。戦争映画というよりは戦争のあった時代に人が生きた、その日常を描いていて、笑ったり、泣いたり、怒ったり、悲しんだり、傷つけあって支え合って、強く生きていく。
主人公のすずは面識のないひとのところへ嫁いだり、えんぴつが買えなかったり当時の日本の背景がよくわり、嫁いだ先でなんとか楽しく生きていくすずの姿もまた強い人間らしさがでていた。
面白いとかつまらないとかそういう言葉じゃ感想は語れないし、評価もつけていいものなのかわからない。ただこころに深く響く作品だった。
タイトルなし(ネタバレ)
映画一般的に「泣ける」という評価は、どこか品が無いなーと常々思いながらも、「この世界〜」の評判がそーゆー「泣ける映画」として出回っており、また心のどっかで「泣きに」観に行ってしまってたのも事実であります。
で、結局泣いてしまったのですが、泣かすための「化学調味料」的なのは全く無く、むしろ味付けは薄め、なんやったら素材の味もするか?ぐらいの演出でした。なのになぜ泣いてしまったか!?
それは、ひとえに「今」の世界と地続きのお話だったからのように思います。
その「今」とは、まさに3.11以降の日本であり、あの大震災を経て、どうやって生きていくべきなのか、を見た思いがするからです。
さきの大戦を経験した人がまだこの世に存在する以上、右か左かで戦争を語るしかないのは仕方ないことだと思います。しかし、戦後、70年以上経った今だからこそ、そうじゃない立場の人たちの戦争の物語もあったはず。戦争を真正面からむきあった人たち、まさに、それは「普通の日常を暮らす人々」だったんじゃないかなと。
「空襲警報飽きた〜」とか「これは、戦争に負けたってことかねぇ?」とか、ある意味、危機感のなさげがすごく印象的で、でもそれが普通で、今だって、震度4くらいやったら、「結構揺れたねぇ?」ぐらいの感覚で語ってしまってるのと、相通じるような気がして。
だからこそ、そんな「普通の感覚」を簡単に脅かしてしまうからこそ、戦争の怖さってあるし、それを浮き彫りにしているこの映画が、火垂るの墓とは違った映画になっている所以だと思います。
だからといって、「日常最高!」とか「普通が素晴らしい!」といった礼賛タイプのでも無かったのが、まぁー清々しい!
ただ生きる、生きていくしかない日常を受け入れるのって、そんなに悪くないな、と思えました。
日常と非日常
観てよかった。
海軍の街、広島の呉が舞台。
そこにも広島の悲劇はあった。
家々からごはんの準備をする煙が立ち上る日常生活の中に入り込んできた戦争という非日常は、いつの間にか日常となる。どんなに悲しくても辛くても苦しくても悔しくても絶望しても、命ある限り行きていくための生活は続いていく。狂えたら、頭がおかしくなってしまえたらどんなに楽だったろう。広島、日本に限らずあの世界に生きた人たちは。
すずの「ずっとぼんやりしたまま死んで生きたかった」という言葉が本当に胸に突き刺さって悲しい。
何とか生きていくこと、それが市民の戦争だった。
たくさんの人に観てほしい作品です。
この後のすずの人生に、少しでも多くの小さな日常の幸せがあったならばいいなと心から思います。
不思議と
つつましさとわびしさ。
見てよかった
大勢に観てもらえて良かった
原作の良さをそのままに
観られて良かった
哀しい
原作はコミックらしい。未読。
呉の街はずれの山村に嫁いだすずの戦前戦中戦後を描く。
軍港の街ゆえにさんざん空襲にあった場所。
ただ、物的な大変さではない辛さがじわりと伝わって来る。。
でも生きていかなければ。
大きな大きな喪失を経ても、淡々と生き抜く人々。
力強い応援歌も、気合もないけれど、小さいけれど屈託のない笑いと、日々の習慣に転がされるように生きて行く。
なんだかもう哀しくてたまらなくなる。。
生きて行く理由なんか、無い。
でも父や母や姉や妹や夫や.....大事な人がいるから、自分も生きている。。
その凡庸さと温かさに、のんの声がぴったり来る。
音楽もいい。
騒がしくなく、静謐に映像を包む。
とてもとても、しみる映画でした。
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