「今度こそ間違ったバスに乗らずに済むだろうか?」この世界の片隅に 平 和男さんの映画レビュー(感想・評価)
今度こそ間違ったバスに乗らずに済むだろうか?
初めて『君の名は。』を見てしばらく経った頃、『聲の形』や『この世界の片隅に』も凄い映画らしいという噂をネット上で見かけ、『聲の形』と『この世界の片隅に』を同じ日に見に行った。
2つとも噂に違わぬ大傑作で、私が今までに見た映画のベスト10を塗り替え、
『聲の形』は7位に、『この世界の片隅に』は6位に、新たに入った。
『この世界の片隅に』を初めて見たのは公開から約1週間経った時期だったが、その時点では私の住所の近所に上映館が無かったので、わざわざ隣県の映画館まで足を運んだ。――そこまでしても十二分におつりが来る程の素晴らしさだった。
戦争について深く考えさせてくれる作品としては、
『ジョニーは戦場に行った』に匹敵する大傑作と言える。
『ジョニーは戦場に行った』と『この世界の片隅に』を続けて鑑賞したなら、戦争についてさらに深く考えたくなるだろう。
『この世界の片隅に』は第2次世界大戦をテーマにした映画であるが、少なくとも全体の2/3ぐらいにさしかかるまでは戦争の陰惨なイメージは感じられない。
その大きな要因は主人公・すずの人柄ゆえであろう。
何と言うか、「ほんわか」という形容がぴったりくる、見ていて癒されるあるいは微笑ましくなるような人柄だと思った。
すずさんをとりまく環境もどこかのんびりしており、
「本当に戦争中なのか?」と訝しくなるぐらいだ。
とは言え、戦艦大和建造地と思しき場所を通過しようとする列車で唐突に全ての窓が閉め切られて車内が真っ暗になったシーン1つ取っても、時代考証が疎かであるとは思えない。
(戦時中は一般庶民には極秘だったはずの大和型戦艦の情報をすずさんが知り得る程度に情報が漏れてる件には少し違和感を覚えたが、「情報漏洩防止の難しさ、あるいは旧日本軍の情報戦能力の脆弱さを描写したものだろう」と思って脳内解釈した)
満席だった上映室ではのんびりしたすずさんの日常に対する微笑みと思しき微かな笑い声がたびたび漏れたが、物語が進むにつれ、すずさんをとりまく環境にも戦争の陰惨さが忍び寄ってくる。
そして、その陰惨さは不意打ちのごとく牙を剥く。
空襲で落下してきた時限爆弾が炸裂し、すずさんの姪・晴美の命とすずさんの右手を奪った。
そのシーンでは、映画を見ている私自身の右手がちゃんと存在するのを半ば無意識に確かめる程に、すずさんに感情移入した。
……大なり小なり創作活動をする者にとって、利き手を失うという事は、想像するだけでも悪夢である。
大きな精神的衝撃を受けたすずさんにさらに追い打ちをかけるかの様な、敗戦の報。
ここに至り、すずさんは激情をあらわにして号泣する。
その激情の大部分は「悔しさ」であると感じられた。
私が思うに、この映画が伝えたい事の1つは
「戦争の陰惨さや理不尽は大勢の人が気付かないうちに忍び寄ってくる」
と言う事ではないかと思う。
大正から昭和初期にかけての日本は不景気ながらも、世界全体から見れば、一般庶民がそこそこ平穏に暮らせる程度に、平和だったという。
その当時と今の日本が似た状況に在る様な気がしてならない。
(世界の強国と言われる国々の間で火種がくすぶっている様子が、溢れる雑多な情報の隙間から垣間見える)
今度こそ、間違ったバスに乗らずに済ませたいものだ。
ところで、最近の某イラスト投稿サイトでは、
「戦後に義手を付けて再び創作活動に勤しむ、すずさんの絵」を時々見かける。
ほんわかした人柄の中に激情を秘めたすずさんの事なので、映画で描かれた時代の後、めげずに再び絵を描く決心をしたのだと、信じたい。