「戦争の「当事者」としての庶民」この世界の片隅に りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
戦争の「当事者」としての庶民
戦時下の庶民の暮らしを描いたアニメーション『この世界の片隅に』。
観る前は、期待と不安がない交ぜ。
というのも、こんな時代に戦争の話をアニメーションで描こうという志は買うものの、真面目一辺倒の今井正的作品だったらイヤだし・・・といったところ。
結果は・・・
昭和19年、広島で暮らす19歳の浦野すず。
突然、見初められれ、呉の北條家に嫁ぐことになった。
大らかで、鷹揚で、かなり世間知らずのすず。
嫁いだ先でも、性格は変わらない。
しかし、海軍鎮守府のある呉は、敵機の襲来を繰り返し繰り返し受けることになる・・・
といったハナシを、映画は丁寧に描いていく。
まず、目を見張るのは、その画力。
当時の町の様子をリアルな、それでいて、柔らかいタッチで描いている。
冒頭、広島の街が描かれ、ザ・フォーク・クルセダーズの名曲『悲しくてやりきれない』のカバーが流れただけで、涙腺が危うくなる。
この街が、後の8月6日の原爆により喪われてしまうのか、と思っただけで、やりきれない。
画の筆致が、まさに「記憶」というに相応しい筆致だからだ。
だが、この冒頭で不安がたまる。
よもや、原爆によって命が失わるハナシ、そこへ至るまでの「犠牲者」としての庶民の暮らしを描いたものではありますまいか、と。
その後につづく物語は、のほほんとしたすずの性格によって、やわらげられていく。
困窮も糧とし、工夫によって生活を続ける。
この前半で、じっくり生活を描くことで、終盤が活きてきた。
映画のタッチが変化するは、終盤、昭和20年に入ってから。
呉に初めての敵機が襲来するシーン。
青い空に踊る爆雲を、すずが描く絵筆から落ちる絵の具を用いて、表現する。
このシーンの表現手法が素晴らしい。
そして、もうひとつ表現手法で素晴らしいのは、すずが幼い義姪を連れて、不発弾の爆発に遭うシーン。
一コマ一コマ、黒背景に白い手書きの線描アニメ。
ギザギザのエッジが心を搔きむしる。
このふたつのシーンのあとに、物語として瞠目するシーンが続く。
戦争も末期。
すずの心が、知らず知らずのうちに変化している。
銃後を守る女たちは「困窮も糧とし、代用できるものは代用で、工夫する。それが私たちの戦い方だ」という。
そして、8月15日の玉音放送。
ここで、すずは号泣する。
「勝ちたかった。なんのために戦ったの。みんな、みんな犬死じゃないの」と。
そう、庶民もみな悔しかったのだ。
8月15日の庶民は「被害者」ではなく、戦争「当事者」だったのだ。
あんなにも、のほほんとしていた少女だって、知らず知らずのうちに「当事者」になってしまう。
だからこそ、戦争は恐ろしい。
こんな時代に戦争の話をアニメーションで描こうとした意義はあった。
大いにあった。