「成長と成熟を軸に、尊重しあう家族の強さを描く」エール! つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
成長と成熟を軸に、尊重しあう家族の強さを描く
「エール!」と「コーダあいのうた」どっちを先に観る?という悩ましい問題について、原作(という表現で良いのかな)の印象に引っ張られないよう、「コーダ」の方を先に観ておいた。
結果、作品賞を獲ったりレビュー評価が高かったりする割に、面白味のない映画だったなという悲しい感想になってしまった。
とばっちりで「エール!」の方も興味が薄れてしまったのだが、月イチ開催の映画鑑賞会で是非観たい!というリクエストがあり、あんまり気乗りしないまま「エール!」を観た。
何これ、全然違うじゃん!めちゃめちゃ面白いじゃん!ストーリーほぼ同じなのに、笑えるところはちゃんと笑えて、しかも感動してホロッと来るじゃん!全部知ってるのに?!
リメイク作品がダメだというわけじゃない。「荒野の七人」や「バニラ・スカイ」、「ディパーテッド」は元の作品との違いこそあれ、1つの映画作品として洗練され、描きたかったテーマをとことん追求し、名作と呼ばれるに相応しい1本となっている。
しかし、「コーダ」は「エール!」が持っていたシンプルだけれど強いテーマに余計な要素が足され、本来のテーマを曇ガラスの向こうへ追いやってしまっていた。
「エール!」のテーマはズバリ「成長と成熟」、運命なんていう不愉快な観念をぶっ飛ばす「羽ばたきの物語」だ。
オープニング、主人公ポーラの一家が営む牧場での牛の出産から物語は始まる。産まれてきた仔牛はやがて我々が食べる牛肉になる。それは運命なのだ。白と黒の斑模様の牛たちの中で、たった一頭真っ黒な仔牛は、ベリエ家とポーラのメタファーである。
彼女もこの仔牛のように、運命に縛りつけられ、彼女の一生は変え難い運命に決定づけられている、ように見える事を狙ってこのシーンは存在するのだ。
この真っ黒な牛に、父ロドルフによって「オバマ」と名づけられ、以降も大事なシーンを担う。
考えてみれば、オバマ大統領だって白人ばかりの歴代大統領の中で今のところ唯一黒人の大統領となった、「YES,we can」の人である。しょーもない差別的なジョークなどではなく、畜産業における牛という「運命」を、「我々は変えていける」という重要なメッセージなのだ。
歌うことを選んだら、家族と離れなければならない。家族と離れてしまうことなど想像もできず、自分に自信も持てない。そんなポーラがふと目を止めた先で、オバマはポーラをじっと見返すのだ。
ポーラが見ているのはオバマを通した自分の姿だ。いずれ出荷される運命、私はそれで良いの?
ポーラに訴えかけるのは、牛じゃないオバマだ。自分を、可能性を信じて。「きっと出来るから」。
可能性を信じて闘うことは、父ロドルフ自身が選挙に出る事でも描かれる。父こそ、「耳が聞こえない」という運命をものともせず、自分の力を信じて、自分のやりたいことを真っ直ぐにやってきた。
成長というパートは、弟クエンティンの恋パートでも描かれる。女の子とスキンシップしたい!という欲求に素直に従う姿からは、聴覚が不自由であることへの不安も不自由さも一切感じない。
母であるジジが、ポーラのパリ行きを反対するシーンは、チーズ工房である。泣きながら「ポーラはまだ私の可愛い赤ちゃんなの」とすがる姿は、母の愛情とまだ子離れ出来ないジジの両面を描いている。それが熟成が必要なチーズとともに描かれているのが、また興味深い。
ジジにとっての「羽ばたき」とは、自分の子どもが手を離れ、一人前になることを見守れる強さを手に入れることなのだ。
成長、或いは成熟へのそれぞれの道のりが重なるように描かれ、互いが互いを必要とすること以上に、互いに尊重し合う。繊細で緻密な演出と構成が本当に素晴らしい。
この映画の中でハンディキャップは必要最小限の要素に留まり、メインのテーマを圧迫することなく、また不要で不可解な感動ポルノに変化することもなく、「当たり前」に存在する個性として捉えられるよう細心の注意が払われていると思う。
この象徴的なシーンの数々を生み出せるのに、なぜこの部分を残さなかったんだろう?アメリカにだって牧場はあるでしょうに。
逆にメロドラマチックに盛り上げようとして、「エール!」が持ち合わせていた各々の個性や、ポーラや家族や先生の気持ちを想像しうる「タメ」の時間が微妙に削られてしまっていた。
どう考えても「エール!」の方が良い映画なのに、なんでレビューの点数は逆なんだろ?