「【1961年、ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンのイスラエルで行われた裁判でホロコーストの真実を伝える世紀の放映を実現させた二人の男の物語。】」アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち NOBUさんの映画レビュー(感想・評価)
【1961年、ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンのイスラエルで行われた裁判でホロコーストの真実を伝える世紀の放映を実現させた二人の男の物語。】
ー 私がナチスの映画を時折観るのは、学生時代に読んだ「夜と霧」の影響である。-
■1961年、潜伏先のアルゼンチンでイスラエルの諜報機関モサドに拘束されたナチス戦犯アドルフ・アイヒマンがエルサレムの法廷で裁かれることになる。
このTV放映権を獲得したアメリカの若き敏腕プロデューサー、ミルトン・フルックマン(マーティン・フリーマン)と、監督を任されたユダヤ系のレオ・フルヴィッツ(アンソニー・ラパリア)。
ミルトン・フルックマンは、一流スタッフを揃えて意気込むも、政治や技術の壁、さらにナチス残党の脅迫が待ち受ける。
◆感想
・1961年当時、ドイツにはナチスのSSだった輩の力が厳然としてあった事は、有名である。映画で言えば「アイヒマンを追え!」で描かれている。
今作でも、ミルトン・フルックマンを脅迫し、捕縛されても”ハイル・ヒトラー!”と叫ぶ愚かしき男が描かれる。
・又、世界もガガーリンの月着陸や、キューバ危機に目を奪われ、最初はこの裁判に余り、注目していなかった事も描かれている。
・今作の見所は、ミルトン・フルックマンと、監督を任されたユダヤ系のレオ・フルヴィッツとの裁判の映し方の考え方の相違である。
ミルトン・フルックマンは、証言台に立つ苦しい思い出を吐露する人々の表情や、裁判全体像を映す様に求めるが、レオ・フルヴィッツは証言者たちの言葉を聞くアドルフ・アイヒマンの表情にフォーカスする事に拘る。
彼の思いは良く分かる。自身が冒した行為の否を認めず、”私は、言われた事を行っただけだ。”と抗弁するアドルフ・アイヒマンが多くの証言を聞いて、どのような態度、表情になるのかを世界に知らしめたかったのだろう。
<劇中に映される、当時のユダヤの民の悲惨な姿は、観ていてキツイ。だが、この裁判の状況を世界30国で放映した意義は大きいと思う。
あの映像は事実なのだから。
そして「アイヒマンを追え!」でも描かれたが、ドイツ国内でも機運が変わっていったからである。
アイヒマンが、最後に”提案した・・。”と言った時のミルトン・フルックマンと、監督を任されたユダヤ系のレオ・フルヴィッツの表情は、忘れ難い作品である。>