「原曲への痛快なアンチテーゼ」脳漿炸裂ガール 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
原曲への痛快なアンチテーゼ
原曲の「脳漿炸裂ガール」がティーンエイジャーに特有の軽佻浮薄な憂鬱と厭世をやや過剰気味に戯画化したものであった一方、本作には彼/彼女たちに対する強い連帯のようなものが感じられた。
聖アルテミス女学院の生徒たちは、ある日突然「黄金卵の就職活動」という理不尽なデスゲームに参加させられる。無理難題を次から次へと押しつけられ、歯向かったり正答できなかったりすれば問答無用で脳漿を炸裂させられてしまう。『PSYCHO-PASS』のドミネーターみたいなやつで。
顔のいい女子高生がひたすら嫌な目に遭う、といういかにもオタク好みの展開が続くのだけれど、主人公の市位ハナと稲沢はなだけはそういった欲望に決して接収されない。二人の間に横たわる友愛は、やや素朴すぎる気もするが、それでも互いの心と心を深く結びつけながら迫り来る万難を排していった。
しかし終盤で驚くべき事実が発覚する。「黄金卵の就職活動」の主催者である若い男は、実ははなの兄だったのだ。はなの兄はある陰謀に巻き込まれ、脳漿を撃ち抜かれてしまう。つまり前頭葉の欠如した半ロボット人間になってしまった。彼の行為はすべて、彼の更に上にいる人々の思惑に他ならなかった。彼もまた被害者の一人だったというわけだ。
ラストシーン、はなの兄が上官と思しき男にこう語る。
「脳漿を撃ち抜かれた人々はみな幸福だと言っている。本当は誰もが意思なんかいらないと思っているんです」
この言葉は原曲「脳漿炸裂ガール」のアティテュードと合致する。どうせ100年後には死んじゃってるんだから、今この瞬間が気持ちよければあとはどうでもいいじゃん、意思なんかいらないじゃん、という。
しかしそうしたニヒリズムが瀰漫することで、社会を陰から支配する悪人たちはかえって猖獗を極める。下層の人々が「どうでもいいか」と開き直ることで、結果的に得をするのはヒエラルキーの最上位にいる人々だ。女子高生を支配する男たちをさらに支配する人々がいる、という多重階層構造がそれを示している。
ラストカットの手前で不自然に挿入される新宿の風景は、下層の人々が自分の非支配性を忘却し、意思なきロボットとして社会に従属しているさまを表しているといえる。
だから最後の最後でハナが「黄金卵の就職活動」のアジトに颯爽と現れるシーンは本当にカッコよかった。しかも彼女の隣には、前頭葉を失ったはながいる。ハナは彼女に「絶対に元に戻してあげるからね」と言う。
システムの悪虐に立ち向かうための武器があるとすれば、それは友情とか愛情とかいったヒューマニズムしかないと私は思う。しかし一方で、システムの悪虐はいとも簡単にヒューマニズムを失効させてしまう。
それでも、ハナははなとの友情のためにシステムに反旗を翻した。見込みの少ない賭けに再び身を投じた。隣にいるはなは意思を失ったままだ。焦点の定まらない目で「どうでもいいけどマカロン食べたい」と呟いている。
それでも、である。
天高く積み上がるヒエラルキーの階層構造に背を向け人生100年と馬鹿騒ぎに興じるニヒリズムを脱却し、不安と痛みに溢れた不条理世界に一握りの愛を持って踏み出す。これはもう原曲に対するある種のアンチテーゼなんじゃないかとすら思う。
スタバだのマカロンだのいった出来合いのカテゴリに好き勝手押し込みやがって、女子高生をあんまりバカにするんじゃねぇぞ、という怒りを、女子高生たちの目線に寄り添いながら描いた良作だった。