「笑うに笑えない人生の終末の問題を直視」ハッピーエンドの選び方 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
笑うに笑えない人生の終末の問題を直視
舞台はイスラエルの老人ホーム。病に苦しむ友のための″ある発明″をきっかけに.結束して救出プランを立てるヨヘスケルと仲間たち。友のために奮闘し前向きな彼らは、常にユーモアを忘れません、彼らの姿は可笑しくも、生きる力をくれました。.
秘密だったはずの発明に依頼が殺到する一方、妻レバーナの認知症は進行してしまいます。
自分でなくなることに恐れる妻と、現実をなかなか受け入れられない夫。それぞれに葛藤し、想いあう夫婦が下すある決断とは?
誰もが生老病死を避けて通れません。医療の発達で長寿社会にとなりましたが、その反面、不治の病や認知症に陥っても、生きることを強制される世の中になったのです。本作は軽妙なタッチながらも、辛辣に見るものに、人生の終末の選び方を問うてくるのです。 特に宗教に関わっているものとしては、安楽死をどう捉えるべきか、すぐ答えが出てきません。父の死が近づいたとき弟から父の延命治療についてどうするかと電話で聞かれて、答えることができず、1週間ばかり逃げ回った結果、ひどく弟から怒られたこともありました(^^ゞわが身に降りかかると、そう簡単に理屈道理に割りきりないものです。
お釈迦様は、毒矢の喩えで、苦しんでいる人を悟らせ善導することよりも、まず刺さっている毒矢を抜いて、いち早く苦しみを和らげる治療するべきですと諭されました。そうであるならいたずらに延命させて、肉体の苦痛ばかり味わいさせることは、慈悲の思いとは逆の行為かもしれません。まして死後の世界を認めるなら、この世に執着させず、早く帰天させて楽にさせたいと感情が起こっても、当然のことでしょう。
しかし、本作で発明される安楽死装置が実際に使われるシーンを見ていると、本当にそれでいいのかどうか、疑問がわいてきます。人の死の時期は、人間が決めてはいけないような気がするのです。どんな病人でも、命とじるまで、せい一杯に病と格闘し、今生の人生の問題集の総仕上げをしなくてはならないはずです。
けれども、本作のように末期の患者や親族から、この苦しみをどうにかして欲しいと懇願されたとき、主人公の取った行動は否定しがたいのですね。
きっと禅の公案のように、本作は私たちの残りの時間の問題を真剣に考えさせてくれる作品なのでしょう。そして、「ちょっとねぇ~(^^ゞ」というハッピーエンドとはいえない結末も、真剣に考えた答えが見つかれば、きっと生き方を変えてくれるような輝きを放つことなのでしょう。
エルサレムの老人ホームに暮らすヨヘスケル(ゼーブ・リバシュ)はユニークなアイディアでみんなの生活を少しだけ楽にするような発明をすることが趣味でした。例えばお薬お知らせマシーンとか神様からの通話と思わせる電話などなど。
ある日、彼は望まぬ延命治療に苦しむ親友マックスから、発明で安らかに死なせてほしいと頼まれます。妻のレバーナ(レバーナ・フィンケルシュタイン)は猛反対しますが、、お人よしのヨヘスケルは、親友を助けたい一心で、自らスイッチを押して苦しまずに最期を迎える装置を発明してしまうのです。同じホームの仲間たちの助けも借りて計画を準備し。ついに自らの意思で安らかに旅立つマックスを見送ってしまうことに。
しかし、秘密だったはずのその発明の評判は瞬く間にイスラエル中に広がり、依頼が殺到してしまいまいます。
そんななか、愛するレバーナに認知症の兆候があらわれ始めて、やがて自分の行動すら分からなくなっていきます。ある朝など食堂に裸で出てしまう始末。でも、一つの秘密で繋がっているホームの仲間の結束は暖かいものでした。正気に戻ったレバーナが落ち込んでいると知った彼らは、みんな裸になって、彼女を慰めるのでした。
そんな絆に癒されつつもレバーナは、自分の存在が徐々に消えていっていることに、絶望して苦しみます。そして、ついに夫にあの発明を使いたいと告げるのでした。
人ごとだった発明。わが身に降りかかったとき、ヨヘスケルがどうなったかはぜひ劇場でご覧になってください。