「世界で活躍する女優の華やかな表舞台と、彼女が時代に取り残されるのを恐れる裏の顔。」アクトレス 女たちの舞台 松井の天井直撃ホームランさんの映画レビュー(感想・評価)
世界で活躍する女優の華やかな表舞台と、彼女が時代に取り残されるのを恐れる裏の顔。
世界で活躍する女優の華やかな表舞台と、彼女が時代に取り残されるのを恐れる裏の顔。
ジュリエット・ビノシェが全編ノーメイクて揺れ動く感情を演じれば、クリステン・スチュワートがなだめすかしながら、自身の本心をこの大女優に浴びせて行く。この二人の確執・演技合戦が最大の魅力と言える。
自分を表舞台へと誘ってくれた恩人の死。その人の代表作であり、自分が昔に演じた当たり役。それを相手役の立場に変えて再度演じる。この最大の賭けに臨む事となった大女優。
彼女にとっての当たり役は、あくまでも若い役の方。
その相手役を演じる事は寧ろ本意では無い。しかし時代がそれを許さなくなってしまった事実。
彼女が全てを受け入れるしかなかったのは必然だった。
意を決して本読みを始めるのだが、その相手役をするのは有能な秘書のクリステン・スチュワート。
この大女優にとって今の彼女は、当時の自分を度々投影してしまう存在と言える。
そうなのだこの映画は、当時の当たり役である役こそがクリステン・スチュワートが演じている役所であり。今自分が演じようとしている役所は、その後事故死してしまった女優さんが演じた役所の多重構造で構成されているのである。
若いとゆう最大の武器によって抹殺されてしまう老いて行く事の悲哀。
これを今自分が演じても良いのだろうか?と悩み抜く。
更にこの映画の主題には【若さへの嫉妬】が大きなテーマとして内包されている。
若さを謳歌し、自由に恋愛をするスチュワート。
この戯曲には【若さへの嫉妬】と共に、二人のレズビアン的な要素も作品の台詞の中で説明されており。度々スチュワートの行動を監視するかの様なビノシェの行動には、問題となっている戯曲そのものを反映する多重構造の要素すら、見え隠れしている様にも見受けられる。何しろ彼女が居ないと、この大女優は自分自身のアイデンティティーを維持できないかの様にも描かれているほどなのだ。
彼女は若者の代表としての意見をビノシェにぶつけて来るのだが、この大女優にとって若い意見に屈する事は、それまで培って来た自分を全て否定してしまう事になるのではないか、と考えている様な気がする。
それだけに彼女の助言を素直には受け入れられない、
その昔ハリウッドの大作映画に出演した事を恥じている様なのだが、若いスチュワートにとっては、寧ろその様な題材を演じる事こそ必要なんだ!と激しく対立する。
いよいよ舞台公演が近付いて来るのだが、若き日に自分が演じた役には、今のハリウッドを代表する若さ溢れる女優クロエ・グレース・モレッツ。
彼女の発言や行動そのもの自体が、自分とは真逆な事に不安を募らせてしまい、この若い女優の行動や発言をチェックする。
世界が若い才能を欲している事は、かって自分がのし上がって来た事実からして、身に染みて感じているのが分かる。
それだけに、戯曲自体に自分の存在が薄まる要素がある内容を知るこの大女優は、彼女にある意見を薦める。しかし、この若い女優はその意見にはっきりとした意見を唱える。
それこそが、この戯曲に描かれた若い主人公そのものであり。この大女優は、もう自分の時代が去ってしまったのかも知れない…と悟るのだ。
しかし彼女はまだまだ老いに対して、世間から忘れ去られる不安感に対し、まだまだ闘志を燃やし続けてる。
この戯曲でその昔、自分が演じた役の女優さんは、自分を引き立ててくれる役でもあった。
彼女はその後直ぐに事故死してしまったのだが、この大女優はだから言ってやすやすと第一線から退く意識等無い。
だからこそ戯曲の最後と違い、最後に消え行くのは若い日に自分が演じた役を多重構造により演じていた、クリステン・スチュワートだったのだろう。
今彼女は女優魂を賭けての闘いを続けている。
その為には、それまで助言をくれていたクリステン・スチュワートの薦めに対して馬鹿にしていたハリウッドのSF大作にだって出演する覚悟すら厭わない。
“立場が変われば結果も変わる“のだ!
スイス山岳映画の巨匠アーノルド・ファンクの美しいモノクロ映像と、現在の技術力を駆使したカラー映像を対比させ。美しいアルプスの山々をうねる様に進んで行く神秘的な霧の映像を折り込みながら、女優とゆう立場と秘書としての立場。それぞれの胸の内に去来する揺れ動きを反映させ、作品の内容と同様の多重性を持たせている。
ジュリエット・ビノシェとクリステン・スチュワートの火花が飛び散る。刺激に満ちた2時間を堪能させて貰いました。
(2015年10月28月日/ヒューマントラストシネマ有楽町/シアター1)