ザ・トライブのレビュー・感想・評価
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3.3 斬新、静音、粗暴
ろうあ+犯罪組織という内容で他にはない感じの映画
ノックをしないところや、ろうあゆえの新しい視点に満ちた映画
カメラワークや編集もうまく映画としては評価が高いのもうなずける。
ただ、そのテーマ性やジャンル性にすべて吸収されているようなそんな気もした。
心打たれる何かはなく、最後はすべて破壊されていく。
なにか全てに「怒り」が込められた作品のようにも感じた。
聾話学校の物語。
聾話学校の物語。
僕の学生時代、
隣接地が聾話学校だったのでした。
ある日の“事件”をここで報告します・・
下校する子どもたちが僕の学校の前を毎日通ります。
みんな手話で、何やら楽しそうにやってますね。学校での出来事かな?テレビか何かの話題でしょうか?無音だけれど実に賑やかな手話での彼らのおしゃべり。
強度の難聴の子は、左右の両胸のポケットに補聴器を付けて、友達との手話で夢中ですね。
ワイシャツにポケットが2つ付いていない子たちは、手作りのホルダーにトランジスターラジオ型の補聴器を入れています。体の小さい一年生だと補聴器の大きさがとても目立ちます。
ホルダーはお母さんの手作りっぽいです。
あの聾話学校は、うちの学校法人がお分けした土地に建てられたものですし、我が校の「学校案内書MAP」にも隣接地としてその存在が載っている。
僕は当然彼らの姿を、毎日毎日見ています。
ところがある日のこと、
僕も寮生だったのですが、外出から車で戻ったときがちょうど聾話学校の子どもたちの下校時間でした。
ちょろちょろ動き回る小学生って危ないですよねー。丘陵地帯の自然豊かな小径です。僕は最々、最徐行であの子たちの後ろにつきました。
彼らの歩くスピードで。ゆっくりと離れて。しばらくそのままずっと。
誰も振り返りません。
彼らは通学路を左に折れて行き、そして僕は寮に戻るために右手の校門へ。
と、その時、二人の子が僕の乗用車の50センチ前に突然飛び出しのです。
「あ”ッ!え!なんで?」
ブレーキは間に合いましたが、呆気に取られて冷や汗でした。
つまり・・「耳が聴こえない」ということはそういうことだったのです。
ゆっくりと、だんだんすぐ後方に近づいてくる車のエンジン音も聴こえないし、さわれるほどすぐ横に並んだ自動車の姿も、急ブレーキ音も、もちろんパニックで咄嗟に鳴らすクラクションでさえも子どもたちにはまったく聴こえない。
(鳴らしませんでした、そんな余裕などなかったので)。
聴こえないんですよ本当に。
【「視覚」に入らないとこちらの存在は、聴覚障がい者は分からない】。
隣接地の学校なのに、5年もそこにいたのに、僕はそのことが実体験としては分かっていなかったですね(汗)
分かっているはず、
聞こえているはず、
通じているはず。
― これらは僕の持っている“常識”に過ぎず、危険な思い込みでした。
皆さんも気をつけて下さい。世の中には聴こえない人たちがいるんです。
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映画は、
寄宿舎が舞台なので、登場人物みんなが聴覚障がい者というわけです。
特に身内に聴覚障がい者がいなければ、外からは伺い知れない「手話」という手段による会話の世界が、そこに展開されています。
入室者の存在を知らせるための、「ドア上のランプの点滅」が興味深いなぁ。
若者たちの青春と、喧嘩と、恋愛のストーリー。
ダークで暴力満載。文科省は絶対に推薦しないギャングエイジ。
お涙ちょうだいの福祉物語は期待しないでね。バイオレンスなんです。福祉とは対極です。ヤクザ映画ですよ。可哀想じゃないし、誰もあんな連中とは関り合いたくないでしょ?
そしてそれらが全て手話で伝えられる。
意欲作です。ひとつの実験映画としては革新的で、成功している。
字幕は無い。だから、
・見ようとする者にしか見えない。
・聴こうとする者にしか聴こえない。
健聴者に挑戦する、超不親切な映画なんですが(笑)、でも見ようとするなら、そして聴こうとするならば、人間はそのコミュニケーションの相当の部分をやり取り出来るんだと、あの無音の画面から僕は語りかけられました。
ほら、初めての外国旅行で、僕らは五感を研ぎ澄まして人間の“声”を聴こうとするじゃないですか、あの時の感覚に似て。
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殴るのも言葉。
水責めも言葉。
セックスも言葉。
「言わないケド、なんとなくこちらの思ってることを忖度して空気読んでね」という我々馴染みのお利口さんの言語体系ではなく、とにかく相手の肩を叩いて相手を振り向かせることからしか対話が始まらないその“強引”さに、(=聴覚障がい者の有り様に)、この映画から学ぶことは小さくないと思う。
すなわち、
相手を呼び止めること、
相手の目の前に回り込むこと、
相手の歩みを止めさせてでもこちらの言い分を伝えるための気概、
そして相手が用いる言語への接近。
通訳無用の、これは直接対話のススメだ。
(了)
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追記①
最近の支援学校は、以前のような失聴者同士の会話(=手話)よりも、健聴者との会話コミュニケーション習得のために、読唇と、口話による発声会話法に重点を置いているようです。
でもちょっとした手話を知っておくと、そりゃあ楽しい。
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追記②
昨年、「パラサイト半地下」のレビューにも書いたけれど、「殴る」、そして「わざと相手に殴らせる」という僕にとっては“未知の言語の世界”を、僕は扉を少ーし開けてみたので。
拳(こぶし)も言葉の世界の一角として、物事を語ってもいるのだと知ってから、当作品への印象は前向きに少し変化したかも知れない。
星半分プラス。
声なき声は届かなかった
映画の表現方法は様々。
中でもこれほど異色のものは無い。
登場人物たちは聾唖者故、やり取りは全て手話。
が、状況説明や字幕は表示されない。
決してサイレント映画ではない。周囲の音はある。
ただ台詞が無いだけ。
何とも実験的と言うか意欲的と言うか、果たして話が伝わるか心配になるが、これが意外と伝わる。
おそらく舞台は製作国のウクライナ。
とある聾唖寄宿学校に一人の少年が転入して来る。
一見穏やかそうに見えるが、その内部では不良たち(族=トライブ)が幅を利かせていた。
転入早々目を付けられるも、彼らの下っ端として仲間入りに。
売春などの犯罪に手を染め、やがて売春少女と関係を持った事から…。
登場人物たちは役者ではなく、実際の聾唖者たち。迫真の演技を披露。
また、これがデビュー作となるミロスラブ・スラボシュピツキー監督の演出は終始、ヒリヒリとした衝撃と緊迫感漲る。ただ者ではない。
確かに一本の作品としては独創的で才気溢れ、素晴らしいのであろう。
が、自分はどうしても好きになれなかった。
まず、手話オンリーというのがどうも不自然。
聾唖者同士だったら何ら不自然さは無いが、時折健常者も交じり、それで一言二言一切発しないというのも…。
ひょっとしてこの表現には、もし私たちの世界から言葉を配したら…という意味が込められているのかもしれないが、リアリティーの中にアンバランスな“創作”を感じてしまった。
しかしそれら以上にゲンナリさせられたのが、その生々しい描写の数々。
不条理で理不尽な状況下、痛々しい暴力、AV並みのSEXシーンもさることながら、あの中絶シーンはまともに見ていられなかった。
聾唖者たちはただでさえハンデを背負っている。これが愚かにも人生を浪費する健常者の若者たちだったら自業自得だが、何故聾唖者たちにさらに過酷な運命を強いる?
社会的マイノリティーの声なき声を訴えているように見えて、実はこの作品こそ差別や偏見を禁じ得なかった。
もう一度。作品としては素晴らしいのであろう。
が、個人的には疑問や不快や憤りすら感じ、二度は見たくない。
アナーキーな聾唖たち
・「この映画の言語は手話である」
・暴行、強奪、非道の限りを尽くす少年たち
・トラックの運ちゃん相手に売春する女子二人組
・ボイラー室でセックスしたら急に彼氏ヅラし始める主人公
・遠めのワンショットなが回しで、あえて動物的な視点で観察しているよう
・妊娠?そして明らかに闇医者な雰囲気のユニットバスで中絶シーンにうわわわ…
・パスポート申請してイタリア旅行計画?
・映画史上もっとも美しいシックスナイン
・いきなり女犯したりどんどん主人公のクズっぷりに拍車がかかり、最後は先生の頭を殴打し、同級生四人の頭を引き出しで潰して終わる。なんなんコイツまじで
・字幕なしで二時間は集中力持たんわ
音無しなのに音が聞こえてくる映画
いくつかの場面で、効果音やBGMがないはずなのに
思わず脳内効果音orBGMが発生していて
場面が切り替わった途端、無音映画だったことを
思い出してびっくりということがあった。
でも、ストーリーがイマ百・・・残念。
忙しない
字幕、吹き替え、 BGMも無し陰鬱な雰囲気の映像に時間を気にせずに鑑賞。
とにかく落ち着きが無く忙しない連中に思えて言葉を発せられる自分でさえ相手との意思の疎通を取るのは困難だったりする。
彼らにとって表現や意思を伝えるのは難易な事柄なのだと。
聾唖者だと一瞬忘れて意識せずに観てしまっている状況があった。
普遍的な作品
入り口が、聾啞者、字幕なし、性と暴力。実際観ても衝撃的だった。こんなに映像で読み取るしかない作品もないと思う。でもやっぱり、蓋を開けてみれば、なんら特別ではない、若さがみなぎっているように感じた。
面白い!極限環境下ストーリー
主演の子が可愛いく、下級生カツアゲすることは、あるあるネタみたいで笑いそうになった。
こんな環境にいたら こうなるわなーって感じながら。
ブラジルのスラム映画、city of God を観た時の感覚に近い。
劇中の国旗で ウクライナって分かったが、
ウクライナと言えば、
チェルノブイリ、借金踏み倒しのデフォルト、社会保障最悪っ国連から非難とか、外務省渡航注意喚起とかの日経新聞の記事思い出す。
そんな貧国で、ろうあ者のキッズが放り込まれる寄宿舎かいな!っ想像してたら、そりゃ 荒れるのは必然かなと。
施設ボロボロで男女同居でなおさら。
そうな想像して観たら リアルに感じられた。
静かで 色合いが沈んでて、北野武映画に感覚にもちょっと似てる感じで。
どうでもいいことだけど、
ライト点滅がチャイムの代わりとは!
痛い
全編手話のみ
字幕無し、吹き替え無し
彼らの一挙手一投足に神経を研ぎ澄まし
彼らの喜怒哀楽を読み取る
翻訳家のフィルターが無いことで成り立つ純水のような映画
彼らが何を考え、何に昂り、何を求めているのか
その感情のぶつかり合いを共有できる
しかも言語の垣根無く世界中の人とだ
切り裂かれたパスポート
学校みたいな狭い社会のヒエラルキーの描写は、言語なんていらないんだなと感じた次第。
ろう者は直接行動になるから激しく感じたが、放課後に学校を支配する空気は違いをまるで感じなかった。余りにも自分の周りに激しい暴力が横行してたからだろうか。
しかし、ネタバレになるから書きにくいが女性なら痛みに苦しみ、吐きそうになるシーンがある。思わず眼を背けた…。こんなこと、珍しいのだ。
陰鬱なストーリーの中、アナと同級生がイタリア土産のTシャツに着替えるシーンにホッと出来るものを感じた。女の子て、男の子ほど刹那的じゃない部分がある。それが端的に出たような。
でもラスト前、アナのイタリア行と止めたいセルゲイがパスポートを切り裂き、少しだけ見えていた陽光のイタリアの面影がぷっつりと消えてラストに突き進むのだが。
見てよかった。
ラストのろうあ者ならではのシーン、セリフも字幕もないこの映画でどうなることかと思えば…衝撃だった。
残酷なようだが、これが現実。ウクライナでもどこの世界へ行っても、人間が集まればカーストができる。人間ってやだね。
セリフはなくとも動き、表情でなんとなくわかった気がしてしまう。表情豊かなだけでみんな魅力的に感じる。
また見たいがやはり次も大きな画面で見たいかな。機会があれば。終始客観的な視線のカメラワークもこの映画にはピッタリだった。
とにかく見てよかった。現実を受け止める意味でも。
強烈な描写。まさに呑まれた。
手話のみの映画は、当然初めての経験。
どんなものか、かなりの興味が湧いての鑑賞。
細かい内容までは、把握はできないが、おおよそ伝わるものだと驚いた。
退屈しなかった。
手話を忘れるくらい、見入っていた。
上下関係がよく描写されていた。
生々しく、強烈。
R18は、納得。
伝える力、受け取る力
まずは他の方も触れている通り、字幕や吹き替えなど一切なしの全編手話で構成された物語です。主軸をティーンエイジャーの刹那的な愛と憎悪に主題を置きながらも、ワンカット長回しや非常に乾いた暴力描写は息を飲むほどに圧倒されます。
今作を見て一番に感じたことはタイトルにした、伝える力、受け取る力ということ、本作の登場人物は伝えることを全くと言っていいほど信用していない。これでもかというくらい激しく伝えたいことを伝えたい相手に向ける。受け取る側も手話で伝える言葉なんざ全く信用せずに何度も何度も聞き返す。まるでその相手を切り刻むように手話を駆使して相手に思いを伝えていきます。
私たちが普段使用する最も基本的なコミニュケーションツール「言語」私たちはいつの間にか言語に頼りきりになってないだろうか?伝える力、受け取る力を言語に任せてしまってないだろうか?そんなことを考えさせられる作品でした。今年は映画の当たり年ですね。
追記 エリックゾンカの「S」を思い出しました。
難しかったけど…
前もって「この映画の言語は手話です」という情報は入っていたし、それなりに「集中して観よう!」と意気込んでいたけど、やっぱり私なんぞに手話が理解できるわけがなく。
売春や暴力が当たり前にある、無法地帯の聾唖学校が舞台。
役者はみんな本当に聾者らしい。
彼らは目で見て相手の言葉を理解し、全身を使って相手に言葉を発する。
考えてみたけど、こんなに手話がきちんと、なおかつ激しく使われているのを見たのは初めてかもしれない。
理解できるできないは別にして、案外すんなり手話は私の中に入ってきた。
それでもやはり何を言っているかわからないし、彼らは言葉を発しないのにずっと“うるさかった”。
夜中に階段を駆け下りるのだって、普通は音を立てないように慎重に行くだろうに、彼らはそんなのおかまいなし。こっちがハラハラしてしまう。
ラストに向かってヒートアップしていくので、ストーリーがわからなくても私は飽きずに見れた。
ラストは、それまでの無法地帯が優しく見えるほど、衝撃的。
会話劇
まずはじめに、手話がひとつの言語であることを、私たちは忘れてはならない。
全編手話というのは、物珍しいかもしれない、字幕がないのに物語を感じることができて凄いのかもしれない。
だが、その前に手話はひとつの言語であったから、わたしにはそれが会話劇にしか見えなかった。
聾唖者の生きる世界に、残酷で汚い一面があるということを取り上げたことについては、確かに驚きつつ苦しくなりつつといった感じではありましたが、、、
あーもううるさいよ!というほどには言葉のシャワーだった気がします。
ただ、ラストシーン、音が聞こえない彼だからこその行動で身震いしました。
ティーンの闇は、どこにでもあるなあと。。トレインスポッティングを思い出しました。
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