「感動。息子がお迎えに来た説を強く推す」母と暮せば うめ太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
感動。息子がお迎えに来た説を強く推す
まずは批判も多いラストですが、あれは原爆で亡くなった方々への鎮魂と、祈りだと強く感じた。レクイエムを歌う老若男女、お母さんと手を繋いだ子供、一瞬で失われた沢山の、普通の方々の魂だと思えて涙が溢れた。戦争と原爆というものを書くからには、祈りと鎮魂が込められなくてはいけないと、思うので、ラストの特撮の出来の問題は置いておいて、あれで良かったと思う。あのラストは戦争と原爆で亡くならなくてはならなかった方々へ送られたものであり、「オチ」では無いのだ。天国へ行って欲しいと祈る祈りと共に私は泣きながら見た。
二宮さんは独特の哀愁がある役者だ。黙って見つめただけで悲しみを表す。泣く演技をしなくとも悲しいのだと感じさせる。セリフで説明するわけではない悲しみを内在した存在を演じさせたらピカイチだと私は思っている。
本当はどうなのかはわからないが、母は息子を探して、投下翌日から長い間被爆地を彷徨った時に被爆したのではないかと推察した。
母は無意識に自分の死期が近いことを感じ取っていたのではないだろうか。だからマチコにしつこいくらいに息子を忘れて幸せになって欲しいと言い出し、おじさんに世話になる関係も清算しようとしたのではなかろうかと感じた。息子が未練で亡霊となって近づいてきたのではなく、母があの世に近づいていたから息子が見えるようになったのではないだろうか。ラストで息子がおやすみという時の、悲しいような怖いような表情。息子は母の死が近いことを知っていた。母を心配しながら、たくさんの話の中で息子は、母にこれからの幸せのことや、長生きしてねというような未来の話を一度も言わないのである。
リアルで、老健施設に勤めている家族から聞いた話。気難しい利用者が、「〇〇丁目の角まで、亡くなった息子と旦那が迎えに来ているので、タンスの中のものを風呂敷に全部詰めて欲しい」と訴えるようになったそうだ。その数週間後にその方は亡くなった。私には、風呂敷にぎっしり身の回りのものを詰めて背負ったその方の魂が、旦那さんと息子さんの待つ〇〇丁目の角まで、歩いて行く姿が想像された。全部持って行こうとして、旦那さんと息子に、あの世には持っていけないよと言われたりしなかったであろうかと、想いをはせた。
その話を聞いた後のこの映画である。
なので、息子がお母さんを迎えに来たんだなと、即思えた。お母さんが亡くなる前にマチコが決心できるように誘い、母子共に心の整理もして、何も心配することを残さず行けるような作業を共に行なった。母と暮らした大事な時間だ。
2人芝居の舞台を見ているように進む、淡々と積み重ねる時間は、別れの言葉も言いにこれず、自らの死で母に大きな悲しみを与えてしまった息子の、親孝行の時間であったと思えた。亡くなる前に、息子と想い出を語り合い、ひとときの喜びを感じ、小さなずるさを清算し、立派な母が、悲しさに心の奥も吐露した。マチコへの愛情と複雑な想い。マチコの罪悪感と、そうして確かにある愛情。その時間の切なさ。それを退屈だと感じる人には、死はまだまだ遠いのだろう。
なぜあなたが生きてて自分の子供が死んだのか。と言われた人を実際に知っている。なぜうちの子だけが。と考えてしまうほどに子供を失うということは悲しい。世の中で、それ以上に悲しいことはないのではないかと思えるほどに悲しい。そう言った実際の悲しみを知っているかどうかで、この映画への感じ方は変わり、評価も変わるのかも知れない。
この映画には戦争という大きな悲しみを産み出したものと同時に、「悲しみを抱いた普通の人」の人生。〇〇人と、数字で語られる被害者一人一人の生きた時間に対する想いがあり、祈りがある。ずっと心に残るであろう良い映画であった。
また、現実時間軸では息子が出てくる時の唐突さ。家の暗闇にスッと消えて行く様は実にリアル。お化けってこういうふうに出るよね〜と面白く見た。
比してあの世の家ではライトアップされる舞台的非現実感で差別化されているのも(そっちの演出はあまり好みでは無いが)面白い。