劇場公開日 2016年7月29日

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「初代に肩を並べる傑作です」シン・ゴジラ アラカンさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5初代に肩を並べる傑作です

2016年8月3日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

楽しい

知的

ゴジラの第1作は,私が生まれる2年前の昭和 29 年に公開されたので,既に 62 年も前の話になっている。この間,長い中断を含みながら,ハリウッド製を含めると本作が 31 作目になる。初代ゴジラは,終戦の記憶が生々しく残る雰囲気を持ち,ゴジラは原子爆弾の象徴のような恐ろしい存在として描かれ,東京を破壊し尽くした。続編の「ゴジラの逆襲」まではモノクロ映画であり,そのため,見る者の想像力をかき立てて,とにかく恐ろしさが半端ない作りであった。大人の鑑賞に堪える作りであり,あまり子供向けの要素はなかった。

しかし,製作が続くに連れて,内容は徐々に子供向けになり,怪獣の種類がやたら増えたばかりか,演出も子供の喜ぶようなものにシフトし,ゴジラが「おそ松君」に出て来るイヤミの決めポーズの「シェー」をやったり,口から吐く放射線をジェットエンジンのようにして空を飛んだり,遂にはゴジラとアンギラスがマンガのように吹き出しで会話するような演出となって,完全に大人の鑑賞に堪えるものではなくなってしまったという歴史があった。制作側からすれば,これは収益を上げるための戦略に外ならず,子供が見たがれば,親もついて行かざるを得なくなって,入場料収益が跳ね上がるためである。現在もその事情は変わっておらず,大ヒットを上げた映画はディズニーやピクサー作品など子供向けが多い。

それに対し,本作は完全に大人向けの作品となっていた。まず何よりそれが非常に嬉しい。ゴジラを子供の手から大人が奪い返したのである。たとえ入場料収入が半分になったとしてもという覚悟をして,この作風を貫いた庵野監督の決意には心から賛辞を贈りたい。もし,ゴジラが本当に日本に出現したら,という想像力をフルに働かせた緻密な作りになっている。庵野監督は私より4歳若いらしいが,ほぼ同世代であり,同じような怪獣映画を観て育って来たと思われる。映像は,まさに我々が子供の頃に,こういう怪獣映画が見たかったというフラストレーションを晴らすかのような作りになっていた。

例えば,昔のゴジラの尻尾はワイヤーで吊っていただけであったから,複雑な動きなどは出来る訳もなく,ワイヤーが使えないシーンでは地面の上を引きずって歩くしかなかったのだが,ゴジラがフル CG となった本作では,いきなり頭上をゴジラの尻尾で薙ぎ払われるようなシーンがあり,非常に胸のすく思いをさせて貰った。その一方で,CG になったからと言って,ハリウッド第1作のようにティラノサウルスのような歩行にはせず,初代ゴジラと同様にのっしのっしと歩くのにも痺れた。動きはどうやら人間を使ってモーションキャプチャしたようだ。大正解であると思う。しかも,今日のニュースによれば,ゴジラの動きを演じたのは何と野村萬斎であったらしい。もうビックリである。道理で腰の据わった見事な歩行だった訳である。エンドロールに萬斎の名前があったのに,劇中で見た覚えがなかったので,てっきり見逃したかと思っていたところであった。

建物の破壊の仕方も実にディテールにこだわってあり,ミニチュアと実写の人間との合成などが実に真に迫っていた。見ている間ずっと,そうそう,こういうシーンが見たかったんだ,という思いを噛み締めたことが何度もあって,まさに痒いところをドンピシャで掻いてもらったような気持ち良さを痛感することができた。ゴジラが歩いているすぐそばの街灯や街路樹が微動だにしないといった不自然なところもあることはあるのだが,余裕で許せる程度の不満でしかない。私と同世代の年寄りなら,おそらく泣いて喜ぶようなシーンが満載である。昔から怪獣映画で怪獣が出て来るシーンに夜が多いのは,黒い空の方がいろいろと誤摩化しが効くからなのだが,多くを白昼のシーンで見せてくれた作りには,監督の自信のようなものが感じられた。

脚本もまた見事なものであった。過去の怪獣映画では,ゴジラが出てくれば無条件に自衛隊が出て来て所構わず実弾をぶっ放していたのだが,考えてみれば市街地で弾が外れれば国民の生命や財産を失わせることになりかねない訳で,たとえミスであっても,自衛隊の攻撃によって日本人が命を失うなどといったことは絶対にあってはならないのである。その辺の描写が実に緻密で見応えがあった。機関銃を1発撃つだけでも国会や総理大臣の許可が必要なのが現実であり,防衛出動の要件としては,他の国家が攻めて来た場合に限られるのであるから,ゴジラには適用できないなど,非常に現実的な話が展開されて実に面白かった。専門用語が飛び交う台詞のやり取りは,気を抜くと大人でも聴き取れない場合があるほどなので,まず小学生以下の子供にはほとんど付いて来れないはずである。この脚本に比べたら,ハリウッド版の第2作でさえディズニーランドのように子供に迎合していたようにしか見えなくなる。

対策本部の指揮官は,会議室に閉じこもってあれこれ情報を集めて作戦を立てることに専念し,そう簡単に現場に出向いたりしないというあたりも現実的であった。緊急の会議の席上では,誰もが早口で用件のみを発言するというきびきびとした描写も非常に気に入った。だが,脚本の不満が少なくとも2つあった。一つは,誰もかれもが,日本のことを「この国」と呼んでいたことである。自分だけは国を超越した存在だとも言いたげな,この呼び方を私は全く好まないのだが,悉く「この国」呼ばわりされることに非常に苛々させられた。だが,1カ所だけ,最終的な作戦に向かう隊員たちの前で,作戦責任者が演説をする場面において,やっと「我が国」という言葉が出て来た。この演説がまた素晴らしく日本人の大和魂に訴えかけるようなものであったので,思わずウルッと来てしまったほどである。

もう一つの不満は,米国のエージェントを演じる石原さとみが,日本語が喋れるという設定であるにも拘らず,日本の閣僚を前にしてわざわざ英語で話しかけるところである。これは非常に嫌味ったらしく,全く意味が分からなかった。急を要する会話を何故双方が英語でやらねばならんのか。省内の会議を英語で行うことにしたという文科省の馬鹿役人どもを彷彿とさせ,また,石原が CM に出ている英会話企業の方から出資と交換に要請でもあったのではと勘ぐりたくなったほどである。

役者は,主演の長谷川博己と総理補佐官の竹野内豊が実に良かったが,数々の映画の雰囲気をぶち壊して来た石原さとみの破壊力はやはり健在であった。他の作品よりは幾らかマシと言った程度であろうか。他にいくらでも女優はいただろうにという思いが残念であった。それにしても,台詞のある役だけでも総勢 328 名という役者陣は豪華なもので,ほんのチョイ役に結構売れっ子の俳優が使われたりしていて非常に見応えがあった。

音楽担当はエヴァンゲリオンと同じ鷺巣詩郎で,かなりエヴァ感の強い音楽を書いていたのが気になったが,一方で初代以降ゴジラ映画の音楽と言えば忘れてならない伊福部昭の楽曲を非常に多用していたのには感心させられた。エンドタイトルなどは,完璧に伊福部作品のメドレーと化していて,監督の初代への敬意が半端ないものを感じさせた。だが,伊福部音楽とエヴァの音楽が代わる代わる鳴らされるという作りは,やはり相当なギャップを感じさせていたのも事実で,やや違和感が残ったのが残念であった。

演出は,映像とともに文句なしである。放射線や火炎を吐く時のゴジラの生き物らしい仕草が,あまりにそれらしく見えるのが素晴らしかった。ただ,ゴジラの形態を少しずつ変化させるというアイデアは,必ずしも成功していたとは言い難かったように思う。その一方で,新幹線や在来線の車両をあのようにして使うというアイデアには感心させられたし,ゴジラの口の中に薬品を注入する方法も,ロケット弾を使うなどという不確実な方法でなく,実に合理的なものだったのにも感心させられた。久々に繰り返し見たくなる映画に出会えたという嬉しさで一杯である。次はいつ行こうかとワクワクしている。p(^^)q 私のように繰り返し鑑賞を希望する客が多ければ,子供向けを排除しても,入場料収入はそれなりに達成できるのではないかという気がする。
(映像5+脚本5+役者4+音楽4+演出5)×4= 92 点。

アラ古希
ゼリグさんのコメント
2016年8月4日

コメント失礼いたします。
細やかな部分まで全くの同意見で、非常に感銘を受けました。
「この国」から「我が国」への台詞の変化は、恐らくあの演説を引き立たせる為の意図的な演出ではないでしょうか。
会議室に篭り「この国の人達の問題」をあれこれ言い合うだけであった官僚が、自ら地獄を経験して、ようやく「自分を含めた」問題として向き合う覚悟をしたという事ではないかと思います。

ゼリグ