「宗師について」バケモノの子 tag_tag0さんの映画レビュー(感想・評価)
宗師について
宗師がなんで熊徹なんかを高評価しているのかわからない、という意見を見た。宗師には猪王山という立派な後継者候補があり、腕っ節だけは互角と噂された熊徹さえ、物語冒頭で軽く伸している。一方の熊徹は、力技で猪王山に劣るだけではなく、自分勝手で感情的でわがままでおまけに怠惰だ。宗師は熊徹のどこに未来を見たのか?
だが、僕の意見はちょっと違う。宗師は熊徹を有望視したのではなく、猪王山の未来に不安を感じたのではないか、と思うのだ。猪王山は確かに人格者で非の打ち所が無いように見える。だが、僕には猪王山の「正しさ」が作られたものに過ぎない、と思えてならない。あえて言えば、無理して、自分を律することで真面目に生きている優等生ということなのだ。
劇中、そのような猪王山の「弱さ」「脆さ」「無理して作られた正しさ」の描写は少ない。だが、よく考えてみれば、本当に人間(バケモノ?)として強くて正しいのは猪王山ではなく熊徹なのだということが容易にわかるエピソードが1つある。それはあまりにもあからさまな故に却って見逃されているのだと思う。それは「バケモノの親」としての「人間の子」への接し方だ。終盤、人間界とバケモノ界に崩壊の危機をもたらす一郎彦の暴走は決して不幸な事故なんかではなかったことは容易にわかる。なにしろ「こういうことが起きる可能性があるから人間をバケモノ界に連れてくるな」という禁忌が厳然として存在し、当の猪王山がその禁を破ろうとする熊徹の難詰しているのだから。そのことを考えれば、実は自分勝手でわがままで自己の感情を優先して世界を危機に陥れているのは熊徹ではなく猪王山の方だということがわかる。なにしろ、九太が人間であることを公表している熊徹に対して猪王山はそれを秘匿しているのだ。密かに危険物を持っている方が、堂々ともっていることの100倍危険だ。それはあまりにも明らかだろう。
そして、九太が人間だと公言しながら弟子にできる熊徹に対して、それを公表できない猪王山の弱さは、ただひとつ、自己に対するプライド、優等生という印象を壊せないこと、だけだろう。もともとダメ人間の熊徹は堂々とルールを破れても、聖人君子(を装ってきた)猪王山にはその自由はない。結局、猪王山は自己のプライドのために世界を危機に陥れるという愚を犯している。その言い訳はただひとつ。「自分が育てれば大丈夫だろう」これほどの傲慢があるだろうか? 劇中、宗師が一郎彦の正体に気づいていたという描写はない。それでも、宗師はそんな猪王山の傲慢さ、慢心、自分が破っている(人間の子を連れ込むという)禁忌を、他人(=熊徹)が破ると公然と批判できるというご都合主義的な性格にうすうす気づいていたとは思えないだろうか。
猪王山の勝手なルール破りと、自分はバケモノじゃないのではないかという一郎彦の悩みに正面から向き合わず「そのうち牙も鼻も伸びてくるから」と言い放ってしまうひどい扱いが一郎彦の闇を実体化させた最大の原因であり、これは事故なんかじゃなく、起こるべくして起こったとしか僕には思えないのだ。
だから、僕は思う。宗師は熊徹を高く買っていたわけではない。そうではなく猪王山にだけは決して宗師の後を継がせたくなかったが故に次善の策として対抗馬の熊徹を、密かに育てていただけなのだと。