「湾岸線に陽は昇る」あん kkmxさんの映画レビュー(感想・評価)
湾岸線に陽は昇る
丁寧かつ誠実に造られた物語であり、評判通りなかなかの名作だと感じました。
本作は、尊厳を抑圧されてきた人々の悲しみや静かな怒り、偏見や差別の醜さ、それでも制限された運命の中でどのような態度を取って生きるか、そして課せられたものに対して向かい合い応え続けることが財産となること、そして生の全肯定といったテーマが余すところなく描かれていると感じました。ややクドくベタな語り口でしたが、その方がキャッチーとも言えそうです。
そのような本作のキモはさんざん語られていると思いますので、今回は2点、かなり側面からの切り口で感想を述べていきます。
特に2点目の切り口はかなりマニアックで、自分語りも入るのでご容赦を。
①おばあちゃんアイドル映画
本作は日本を代表する2大おばあちゃん俳優が共演してます。樹木希林と市原悦子です。2人の共演は初めてらしいです。
後半、この2人が並ぶシーンは最高ですね!2人とも超かわゆい!新しい萌えポイントを開発された気分です。
市原悦子は正統派かわいいおばあちゃんだし、一方樹木希林はややクセがあるものの本作では彼女の穏やかな面が強調されているので味がある可愛さでした。市原悦子は洋装で樹木希林は和装(だったような?)と、キャラの違いもはっきりしており、それがまた良かったです。もう少し絡みがあり関係性がより伝わってくると、さらに萌え狂えたのですが。やや残念です。
『モリのいる場所』では山崎努がアイドル性を発揮していましたし、今後はおじいちゃん・おばあちゃんのアイドル映画が熱いような気がしてます。
②千太郎=ドリアン助川
(プチネタバレあり)
(しかも自分語り入ったウザめの超長文です、引き返すなら今のうちですよ!)
もう一人の主人公・千太郎は、私から見ると原作者・ドリアン助川の姿が色濃く投影されているように感じました。
ドリアン助川。元叫ぶ詩人の会。
ドリアン助川は私にとっての神々のひとり、いや、おそらく公人としてもっとも私が影響を受けた人物です。
90年代後半、ドリアン助川はなかなかに影響力を持った存在でした。
96年くらいからはじまった『金髪先生』という深夜のテレビ番組は、ドリアン助川が先生となり、洋楽の歌詞を翻訳していく内容でした。それまでディスクユニオンで売られてる正体不明の輸入版メロコアCDしか聴いていなかった私にとってこの番組は革命でした。この番組で私はスティングやコステロ、トム・ウェイツを知り、ボスやイーグルスの歌詞の深さに感動しました。この番組をきっかけに私は20世紀後半でもっとも影響力を持ったカルチャー・ロックミュージックに入門でき、それは現在まで私の人生を豊かにしてくれています。
また、同時期にドリアン助川は『ジャンベルジャン』というラジオをやっていました。これは土曜の夜にティーンの悩みを電話で受けてガチンコで相談に乗る、しかも生放送というとんでもなくハードコアな内容でした。この番組でドリアン助川は、決して道徳に逃げることなく、ひとりひとりの悩みに向かい合っていました。
そのガチを貫くアティテュードは実にロックでした。しかも、叫ぶ詩人の会の『ぎっこんばったん』という曲で、「人生相談なんかやりながら、本当にわからないのはオレなんだ」と葛藤を吐露しており、ごまかさない姿勢にもシビれました。
ドリアン助川のありのままに真っ向勝負を続ける姿を見て、こんな風に生きていきたいと思ったものです。
叫ぶ詩人の会もボチボチ聴き(ポエトリーリーディングなので結構キツく、聴き込んだのはベスト盤くらいでした)、彼のエッセイや詩集も読み込みました。
しかし、その後ドリアン助川は失速します。
叫ぶ詩人の会は97年の後半、ギタリストTakujiが覚せい剤で捕まり、脱退しました。若者の悩み相談をしているくせに、バンドメンバーはシャブやってるのか、偽善者め、みたいな空気が当時あったと感じています。ドリアン助川自身、善人的なパブリックイメージに悩まされており、より身動き取れなくなった印象を受けました。
しかし、何よりギタリストを守れなかったことが彼を苦しめたと思います。彼の異変には気づいていたが、何もできず、結局彼は脱退してしまった。そして叫ぶ詩人の会はこのダメージをリカバリできず、99年に解散しました。ドリアン助川は表舞台から消え、逃げるように海外に拠点を移しました。そしてドリアン助川という名まで封印したのです。この時の傷はそれほどキツく、計り知れないものがあったと想像できます。
ドリアン助川は「守ること」ができなかった人だと思います。
上記の前に、ドリアン助川は大学時代に劇団を旗揚げし、しかし自分の独裁によって劇団を壊してしまった過去があります。その後ドリアン助川は酒に溺れ身体を壊しますが、叫ぶ詩人の会を立ち上げることで復活しました。しかし、その叫ぶ詩人の会も守れなかった。彼は2度も、守れなかった挫折を経験したのです。
本作の中盤に、徳江に去られた千太郎が「守れなかった」と自暴自棄になるシーンがありました。
この千太郎の言葉は、間違いなくドリアン助川自身の言葉だ、と感じました。本作を鑑賞している人たちは、20年前のプチ有名人のことなど知らないと思います。しかし、ドリアンチルドレンの私にとっては、そうにしか思えなかったのです。
それまでは「ドリアンっぽい感じもあり、まぁいい映画だなぁ〜」くらいにしか思えなかったのですが、ここで一気に本作が自分にとって特別な意味を持つようになったのです。本作には、ドリアン助川の後悔と贖罪の物語が含まれていると直観しました。
徳江に去られて酒に溺れたのもドリアン助川そのものだったし、千太郎が過去に罪を犯した経験、母の別れに立ち会えなかった経験は、ドリアン助川が罪悪感をかかえ、その苦しみと向かい合えていなかったことを意味していると思います(しかし、過失ってのは言い訳がましいですぜドリアン兄貴!)。千太郎が徳江に会いに行くことに躊躇するシーンは、向かい合うことの怖さが伝わってきました。
全生園のシーンは、ドリアン助川がインナーワールドに入って行くように感じました。そして徳江と佳子にぜんざいを振舞われ、涙を流す千太郎を見て、私も涙しました。赦しまでは至らないかもしれない。そんな簡単に自分を赦せないだろう。でも、その一歩をドリアン助川は踏み出したのだな、と直観しました。
ドリアン助川は10年以上その名を封印していましたが、2011年に再びドリアン助川を名乗り始めました。
ドリアン助川の「守れなかった」挫折から少しずつ回復する動きはありました。だからこそ2013年に『あん』を書くことができたのでしょう。
本作はドリアン助川にとってのサイコマジック・ボムを映画化したものだと感じました。その意味では、河瀬直美は職人としていい仕事をしたと思います。
そう考えると、河瀬直美の『Vision』は何だったのだろうか?なんであんなにダメだったのか?自作よりも職人監督の方が向いているのでは?
と、最後に河瀬をクサして長い感想文は終わります。