「事件が会議室で起きていた」日本のいちばん長い日 masakingさんの映画レビュー(感想・評価)
事件が会議室で起きていた
松坂桃李が演じる畑中少佐が、当時の幹部候補生の強硬派を代表する性格の象徴であったか。とにかく恐ろしい。実際の畑中少佐は穏やかなお人柄であったらしい。だからこその恐怖も感じ得る。
国民一丸となって玉砕を覚悟で、と国民を代表しているようでありながら、彼が市井の状況を把握している場面は一つもない。まさに事件は全てが会議室で進行する。 彼がわずか1名の同伴者と自決する場面では、心底ホッとした。
私が住む地域は、玉音放送の前夜、大規模な空襲にあったことで知られている。父は当時4歳で、爆心地から数キロ離れた場所に住んでいた。日中のように真っ赤に燃える爆撃の光景が脳裏に焼き付いているそうだ。ポツダム宣言を受諾する報せはすでに他国に届いていたはずの時間に、それでも東北の片田舎を大規模な爆撃が敢行された。一説には、米国が爆薬の在庫一掃処理のためであったとも言われている。戦争とは、結局のところ、経済を循環させるための方便という側面をもっている。
自国の2000万人を殺せば(死なせれば)、この戦には勝てるとやすやすと言ってのける将校も、「国体の維持のために軍は欠かせない、サザエの殻のようなものだ」と、昭和天皇の専門分野のフィールドで、したり顔の説得を試みる東條英機も、いざなぎ景気を超えたと得意げな、富裕層中心の経済政策を推し進める誰かと重なる。国体を支えているのは一体誰なのか。そのことの本質を当時も今も、本質的に理解できている者はいるのだろうか。
東條によるサザエの殻の喩えは、「チャーチルもスターリンも、殻ごと捨てるだろう」と昭和天皇に返される。この場面が自分にとって、本作の白眉の場面であった。
本作は1964年の同名作品のリメイクである。昭和天皇の人物像を掘り下げ、鈴木総理と阿南陸軍大臣の信頼関係のもと、薄氷を踏むような政治的バランスのもとで降伏にこぎつける様を時系列で淡々と描いたところに、オリジナル版との差異が見られる。
一見当時の上層部に対する敬意を払っているようでありながら、阿南大臣は自刃する朝方まで、酒を飲んでいる様子を克明に描写してみせる。鈴木総理も家族に囲まれながら総辞職の文面を確認するだけである。
どうしても、会議室で事件が起きている感が否めないまま、映画はプッツリと終わりを迎える。閣僚や幹部級の軍人にとっては長い数日間だったかもしれない。
当時の国民や最前線にいる兵士たちにとってどうだったのか。それは描かれないままだ。それが本作の隠されたメッセージだったのなら首肯できるのだが、そこに制作側のメッセージは感じられない。