「相手をなんと呼ぶか、それが問題だ」あの日のように抱きしめて talismanさんの映画レビュー(感想・評価)
相手をなんと呼ぶか、それが問題だ
その人だ、と分かるのは細部でなく全体の雰囲気や身体の動きによるのではないかとマスク時代の今、思う。顔の半分以上がマスクで覆われていても自分は人に分かられているし随分ご無沙汰の人でもすぐ分かる。
ジョニーはとろいのでなく背景と理由があったと思う。収容所に送られた妻がどんな姿顔かたちであろうと生きて戻るなんて全く考えてなかった。これが一番大きいと思う。次は、目の前の女性が妻であると分かってしまう自分を絶対認めたくなかった。戦後「知らなかった」と言った沢山のドイツ人のように。相手をネリーと認めたら、非=ユダヤのドイツ人である自分はどれだけ責められるか。密告したことも離婚したことも彼女に全部語らなければならない。そして必ず「なぜ?」とネリーから聞かれる。どう答えられる?自分から収容所はどうだった?なんて聞くことも絶対にできない。
ジョニーはネリーに距離をとるよう指示する。自分を愛称のジョニー(Johnny)でなくヨハネス(Johannes)と呼ぶように。互いにSieで話すようにと。駅のホームに降り立って友人との再会クライマックス場面の台詞練習ではdu(そこでネリーはちょっと嬉しそうにする)!でもジョニーとはハグまで、キスは無し。ネリーにとってそれはショックと驚きでも、自分の買い物メモも葉書も靴も切り抜きもとっておいてくれたジョニーだから大丈夫、以前に戻れる、戻りたいと意識的に思考停止したんだと思う。ネリーの弱点でもあり強い所は教養ある豊かな家庭の苦労知らずだったお嬢様気質かも知れない。収容所で辛くて怖い経験をしたのに、あんなに酷い怪我をしたのに、ユダヤでないドイツ人の夫や友達と再会してまた昔のように過ごせると本気で願っていたように思う。
弁護士の仕事をしているレネはドイツ語の歌なんか耳にしたくもないと明確に言うユダヤのドイツ人。だからパレスチナのハイファかテルアビブにネリーと共に移住する計画を立てる。過去を向くネリーが許せない。レネが自分に下した最後の決断、それは全てを捨てて新天地に一人行く割り切りと孤独に耐えられなかったのか、ネリーに「真実を見なさい!」と伝えるためだったのか。絶望だ。
ネリーの気持ちが変化したのは、腕に囚人番号入れなくてはとジョニーに言われた時だ。バスルームに一人閉じこもり自分は囚人番号の入れ墨を2回入れられたと思い知った。1回目はアウシュヴィッツで2回目は夫によって。冷静になり初めて怒りが生まれた。
美しい季節、屋外で「夫」や友達とビールなど飲む、なんとなく気まずい雰囲気の中で。
その後、皆を部屋に迎え入れる、ジョニーにピアノを弾かせる、私はSpeak Lowを歌う。これは事前打ち合わせ無しで決めたこと。私の歌を聞いて。私とあなたで何度も練習したでしょう。ピアニストのあなたならわかるでしょう、私だってこと。腕の番号も見えるでしょう?
おまけ
ジョニー、ジョニーでこの映画見てからマレーネ・ディートリッヒの「ジョニー、あなたの誕生日には」が頭の中で繰り返し流れて困った。