トイ・ストーリー4のレビュー・感想・評価
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オモチャに自我を与えた総決算。
好きな人が多いのは承知しているが、自分は『トイ・ストーリー3』が苦手だった。理由はいくつかあるのだけれど、あの大団円をハッピーエンドと思えなかったことが大きい。オモチャの決して明るくない将来像についてはこれまでも触れてきたのに、新しい持ち主が見つかってめでたしめでたしというのは、問題の先送りにしか思えなかったのだ。
だから本作が「ウッディが自分の将来について模索する話」になるのは必然だったと思う。「オモチャは子供と遊ぶのが幸せ」が本シリーズの鉄則だが、今回は勝手が違う。持ち主ボニーは、本作ではほとんどウッディに関心を示さない。でもしょうがない、幼稚園児だもの。好みも興味も変わる。さらにそんな事情より重要なのは、「ウッディに自我がある以上、オモチャという枠を超える日がやってくる」ということだ。
本シリーズには「自我と命のない物に自我と命を与える」というフランケンシュタイン的側面があって、生まれた以上、いつか自分自身や人生と向き合うくらいにウッディが(人間的に)成長するのは見えていた。ウッディが残っても旅立っても、どちらも感動的な物語は成立していたと思う。しかしウッディは選択した。作り手が生み出したキャラクターが、ついに自分の人生を生き始めた。ウッディに開かれた可能性を心から応援したいと思う。
物語は起伏が少なく絶望的なピンチに陥る場面も無いく退屈
結論からいうと、感想は期待外れでつまらなかった。ワクワクして観に行ったのが馬鹿らしい。歴代ワーストワン。
物語は起伏が少ないし淡々と進行していく。絶望的なピンチに陥る場面も無い。ウッディ&ボー&羊ちゃん無双でなんとかなったんじゃね。余計な新キャラと旧作キャラはそんな見せ場ないし要らなかった。
新キャラはくせ者揃いで面白かったが、描写が薄くて感情移入できなかった。
フォーキーはめちゃ良いキャラしてたのに描写不足のせいで、ゴミからおもちゃになる成長過程が見えなかった。こいつ活躍したの連打シーンだけじゃん、あとはお荷物、あとちゃっかりギャビギャビーと打ち解けてるし。最後フォーキーがきゅんきゅんするシーンで「お前いつの間におもちゃになってんねんwカッコつけんなやw」って突っ込んでしまった。
ギャビーギャビーは今作唯一のヴィランなんだろうけど弱すぎる。最初アンティークショップでウッディとフォーキーと出会ったときは、裏がありそうな悪役感ぷんぷんしてたけど全然そんな事はなかった。しまいにはフォーキーとウッディと打ち解けて仲間ポジになっとるし。あと女の子にあっさりゴミ箱に捨てられててかわいそうだった。トラウマレベルだろあれ・・・最後は迷い子が持ち主になったけどこんなすぐ立ち直れるかね。
1-3はおもちゃとアンディの友情、おもちゃ同士の友情とテーマがはっきりしてた。
4はウッディとボーの恋愛、ギャビギャビーの抱えている闇、フォーキー成長など色々ぶっこみすぎて全体的に中途半端になってしまった印象。
5段階評価で2点。1-3は何度も観たくらい良作だけど今作はもう観ることはないだろう。
ネットでも賛否両論みたいなので観た人の感想を聞いてみたい。
評価はフォ-キ-に対してどう思うかで分かれる
いや~ 炎上評価となってますねぇ。
イオンシネマは毎回超満員だったけど。
(値上げしてない劇場なんで客が殺到しているだけなんだけど)
低評価の人には、やっぱりフォ-キ—に対して、
ゴミ?扱い 愛情なんか注げない、なんで助けるの~っていう
想いが有るのでしょう。
新しい話の展開にもついていけない人とか。
オモチャの想いとか、恋愛?勇気?
人の子に勇気を与えるのは オモチャの使命!っていう
今回のテ-マになっていて、
それが目にするオモチャならいいのだが、ゴミから作ったものが
それらに愛情が注げる? ここが問題なのでしょう。
そして 性格的にちょっと抜けてるw
どうですか、皆さん、彼らオモチャを人に例えたら。
元々この映画は サイズの小さいオモチャ達ですが
小さくても皆で協力して何かをやれるんだよって事で
成り立ってるでしょ。
これ 人間界の話になってるでしょ。
フォ-キ-もきっと 人に例えられるはず。
ゴミ同然の寄せ集めは、人の役に立ってはイケませんか?
女の子に勇気や愛情を注いではイケませんか?
女の子が これが良いと自分で考え、自分で作った
(誰かが作ったものでない)この者を、
つまんない奴だと非難しますか?
貴方も幼少のころ、今見たらゴミ同然だと思うでしょうが
その頃作った事あるでしょ?違いますか。
本人にしか分からない事って多いと思うんだナ。
ウッディ—はいち早く その事を悟ったんだよ。
自分じゃない こいつなんだって。
見かけじゃないんだって事を。
既製品でなくて 個人オリジナルへの
想いってのが やはりここにはあるのだと思います。
そして 勇気を与える。自分のペットや子供の様に
大事に大切にする。
そこが この映画の狙いなんだと感じます。
ほら、近所でも ボロボロの車を大事にしてる人とか、
自ら作った服を着てる人とか、装飾品つけてる人とか。
人への思い、他人への愛情、これを色んな形で
オモチャに投入して描いているのが
このトイスト-リ-。
だから、最後にウッディ—と皆が分かれる事に
なったのも、他のおもちゃ達も了解しているし
納得してのシ-ンだったと思う。
出会いが有って、別れが有るのは
人の社会もオモチャも同じなんだよ。
ほら、貴方の幼少の時 持ってたオモチャも
いつの間にか貴方が知らないうちに 無くなってるでしょ?
違うかな。
だから、女の子も 急にウッディ—が居なくなっても
そんなに気になっていないかもですよ。
人は成長しながら 色んな物へ興味を抱き変化をさせます。
ウッディ-もその中の一つだという事なんですね。
そうある事はちょっぴり悲しい気はしますが
死んだ訳ではありません。
彼女が成長していった証だと思うんですよ。
この映画は、決して裏切らない
人や物に対して 愛情の詰まった
とても優しい映画だと思います。
最高に楽しかった(再鑑賞は無し)
映画館。
序盤両親と遭遇して映画どころじゃなかった。
おもちゃの好みは変わるし、
遊ばなくなるおもちゃも出てくる。
その中でウッディが
ボーと一緒に外の世界へ行くとは思わなかった。
最高に楽しかった。
お互いあらすじを見ていなく、
ボーはどうなったっけ?っていってたら
今回めちゃくちゃボーのお話でなんか感動した。
骨董品屋の人形たちが
ガチで夢に出るレベルでこわかった。
ごーみだーー!!
19.8.4 映画館
ウッディの決断とは!
これは評価分かれてしょうがないねという感想。これまでの3作を否定してしまうストーリーは、おもちゃから人間らしさへの成長を感じました。
いつもならば主役は、ウッディー&バズですよね。今作は新キャラのフォーキーだったでしょうか?いやボー&ウッディーだったでしょう。家にいることを諦め持ち主が居ない自由な生き方選んだボー、一方持ち主の子供に尽くす事が幸せと感じているウッディーの2つの思いの交錯が見事に描かれた作品でした。これは、おもちゃを忘れていく大人に向けた強烈なメッセージのようです。
自分を「ゴミ」と信じているフォーキーの登場もウッディーに変化をもたらしたきっかけじゃないでしょうか。必要とされるだけでゴミから大切なおもちゃへと変わっていくフォーキー。「君はボニーに必要なおもちゃなんだ」と伝え続けたウッディーの子供への思いと優しさがフォーキーの気持ちを変えることができた。でも、ウッディーにとっては自分が一番でありたいという思いをフォーキーに託すことになる辛い事実でもあっただろうに。
子供のそばに居続けることを大事にしてきたウッディーに、お互い恋人のようにひかれあっていたボーの存在があまりにも大きく影響しました。ウッディーの気持ちの変化が、今作の一番のテーマなのです。「自分の役割は何なのか」を感じながらも子供達に従えいつか離れていってしまう悲しい人生を送り、ずっとクローゼットで悲しみ暮らし続ける、今まのトイ・ストーリーシリーズでウッディーがこんな暗い気持ちになる事があったでしょうか。
シリーズを通して観てきた方にとって、今作では何か違和感を感じながら鑑賞したのではないでしょうか?前作の完璧なエンディングの後に、これを描くのか!?っと思われる方も多いはず。これまでの作品を否定してしまう事にもなってしまうテーマです。そしてバズ含めこれまで活躍してきたおもちゃ達の活躍が殆ど見られないのです。
でも、あえて描いた製作者の意図は何だったんでしょうか?ウッディーは忠誠心という言葉を使いました。そこにはなんか奴隷のような主従関係があるように伝わってきました。やがて見放されるおもちゃの人生を捨て、僕たちは新しい世界で自由にいきていく!その決心をしたウッディーは人間と同じ成長が見えました。悲しみではなく新しい人生を開いて期待に満ち溢れた姿です。
いやいや、ちょっと待った待った!今回の賛否両論のエンディングは私はこれはありはありと思いますので肯定派です。ただ、ただですよ、これで終わるにはあまりにも寂しく今までの作品が何だったんだとなります。
ウッディーはアンディーがずーっと忘れられないのです。続編で最後には、アンディーの元に戻るウッディーたちの幸せな姿が観たいと思います。駄目でしょうか…。おもちゃ達の幸せなトイ・ストーリーのエンディングが観たいのです!
実写版に匹敵する映像クオリティ
ウッディとバズの友情とか、オモチャにとっての幸せとか、その繰り返しで何も進んでない。
ついに完結らしいその終わり方も、人間と会話しないまま終わるんだね、泣ける。
派手なアクションシーンも多いが、人形達の可動部分が少ないので、オモチャをポイポイ、コロコロ、トントンと動かしてる感じ。
あまり感動できなかった
ウッディが悪者だったギャビーと壊れたボイスを交換してあげるのがとても優しくて印象的です。ボニーのところへ行く途中で迷子の女の子を見つけて幸せになる展開も面白い。
あと、ヒロインのボーは表情が豊かでとても魅力的に描かれていたと思います。
気になったのは下記です。
・ボーと離れて、家に帰ろうとするウッディだが、バズのボニーは大丈夫の一言で、家に戻らない決心をします。大きな決断をするには少しエピソードが弱いと思います。
一度は家に戻るが、ボーが危険を顧みずに迎えに来てくれて、一緒にいくぐらいの展開が好みです。
・仲間たちとの別れがあっさりしている。
保安官バッジをジェシーに渡すのは良いが、その後が少し物足りないです。
「こんな大事なモノはもらえない」「ボニーのことを頼む」ぐらいの台詞が欲しいです。
以上
我々が無邪気に与えてしまった生への落とし前
作品が100パーセント自分の思い通りになると思っている作り手は嫌いだし、そうあるべきと考えている受け手も嫌いだ。作品は逸脱する。登場人物は意図の通路に容易く穴を開け、好き勝手なところへ向かおうとする。
ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』という映画に、若者たちがボールもラケットも持たずにテニスをするシーンがある。スマッシュする音もプレーヤーの息遣いも確かに聞こえているはずなのに、そこには何も映っていない。カメラという意図性は、決して対象の全てを接収できる完全無欠の道具ではないのだということを、アントニオーニ監督は今一度主張している。何かにカメラを向けることには、常にその何かに対する責任が伴うのだ。
玩具に人間と同等の自我を与える、というのも言うなれば無邪気にカメラを回すことと同義だ。そこには画面的・物語的な進展性に対する欲望だけがある。玩具たちは、『トイ・ストーリー』という映画のために唐突に自我を与えられ、あまつさえ人間に奉仕することを運命づけられてしまった。
しかしそれは別に悪いことではない。私もまたウッディやバズのめくるめく大活劇に心を躍らせたし、彼らが紡ぎ上げる数々のドラマに胸を締めつけられた。とりわけ『3』は玩具と人間の間に横たわる根本的時差の問題に目を向けた意欲作だったと思う。ウッディたちはもう子供ではなくなってしまったアンディとの日々に別れを告げ、次なる持ち主のもとへ旅立っていった。
とはいえ『3』の物語はハッピーエンドの位相が最後まで人間側に設定されていたように思う。大人になるにつれ玩具への興味が薄れていく、という我々の後ろめたさを、玩具たちに「俺たちは誰かに奉仕している限りどこへ行っても幸福なんだ!」と言わせることで無理やり解消していたというか。玩具たちが抱える自己存在の不安は、実のところ巧妙に先送られていただけに過ぎない。
したがって本作はシリーズにとって必然だったといえる。ウッディは作り手と受け手の極限まで肥大した全能感のあわいをすり抜け、その先で隠匿されていた自己自身を知るに至る。それだけであれば既存の構造に対する単に技巧的な裏切りに過ぎないのだが、ウッディがボニーのもとを離れるまでの過程に強い説得力があった。
ウッディがゴミ同然のフォーキーを庇い続けるシーンは、彼が既に主人との関係の側端にまで追いやられていることを如実に物語る。それでもボニーを信じ続けようとするウッディに、これでもかというほどの現実が襲いかかる。
射的屋に何年間も吊るされ続けたダッキー&バニーや、古物店に売り払われたデューク・カブーン。極めつけはウッディとボイスボックスを交換してまで声帯を手に入れたにもかかわらず、意中の子供に「いらない」の一言で捨てられてしまったギャビー・ギャビー。
その一方で特定の持ち主がいない、つまり「幸福でない」はずのボーやギグルはなぜかとても楽しげだ。
それらの小さな違和感が、ウッディを悩ませる。俺もそろそろ自分のために生きてもいいんじゃないのかと。『トイ・ストーリー』という物語が設けた檻の外側を見てしまった以上、ウッディはもはや自分を愛していないボニーのもとへ戻ることができない。そんなウッディの心境を知ったバズが、彼の決心を優しく肯定するラストシーンは美しくも切ない。
我々が勝手に自我を植え付けてしまった玩具たちが、その自我を起点に我々を裏切っていったことにより、作品と我々の関係はようやく正常化したのではないかと思う。寂しいといえば寂しいけれど、そもそも彼らに生を与えてしまったのは他ならぬ我々なのだ。
ラストシーンでのフォーキーと新入りのやり取りはきわめて示唆的だ。
「私、なぜ生きてるの?」
「さあ、なぜかな」
我々の欲望はこれから先も数多のお前たちに望まぬ生を与えるだろう。だからお前たちも好きにすればいい。どのような結果を招来することになろうと、最後までそれを見届けることが我々の責務だ。
子供部屋からの旅立ち
新たな仲間、ボニーのゴミ(笑)の出現でウッディが、好きだった(と思われる、笑)ボーと再会したことも切っ掛けにバズ達と別れる=子供部屋からの旅立つ。何だか人間の親離れみたいなモノかしら。なかなか見どころあり、良かったです。もちろん映像も凄い!!
賛否両論とは
まあとにかくよく出来た作品だ。
あらゆる場面でのウッディの選択はいつも微妙であり、むしろ混乱を招くきっかけとなることが多い。
しかし、正しいかどうかは結果論であって、重要なのは何を選択するか、その決断する瞬間の気持ちなのだ。
ボー・ピープは引き留めるウッディの元を離れて旅に出た。
ラスト、決断に迷うウッディに親友バズは優しく送り出す。
結局ウッディは自分では決断出来なかったのかもしれないが、少なくとも自我を見つめ直す旅には踏み出せたのだ。
シリーズ最新作としては賛否両論的らしいが、個人的にはすごく共感出来た作品だった。
ボー・ピープのメアリー・スー感
単品で見ればストーリー的にも悪くないと思う。でも、これをトイ・ストーリーシリーズの続編として出されると違和感が強い。
「メアリー・スーって二次創作の話じゃないの?」と思った人もいると思うけど、ここではあくまで「要素要素がメアリー・スーっぽい」と思った理由を書いていく。
具体的に言うと
・ボーピープが肉弾戦も作戦行動も精神面もやたら強い。
・当然のように他のオモチャ達に慕われ愛されている。
・ウッディやバズが(出番の長さではなく実績として)全然活躍せず、ボーピープが活躍しまくる。むしろウッディがボーピープの足を引っ張っている。
・最後は主人公ウッディと一緒になる。しかも主人公は仲間との別れを選んでまでボーピープと一緒に行く道を選ぶ。
という点。
勿論ボー・ピープは元々存在するキャラだけど、なんというかキャラが変わりすぎて"ボー・ピープである"という感覚が薄いのもあると思う。
ぶっちゃけ「トイ・ストーリーのボー・ピープに転生したのでウッディを救おうと思います」ってタイトルでもあんまり違和感ない感じのストーリーだった。
こう書くと「ラストシーンはあくまで生き方を選んだだけであって、ボー・ピープ(恋)を選んだわけではない」という意見があると思う。
でも強く言いたいのはそこじゃない。ウッディやバズを差し置いてボー・ピープが活躍しすぎてるのが問題。
本当にウッディとバズの見せ場がない……。
あのオチは個人的にはうーんな感じだったけど、ああいうオチにするならするで、トイ・ストーリーなのだからウッディやバズがきちんと活躍する所が見たかった。
もはやボー・ピープが主役でウッディは脇役のトラブルメーカーになってる印象。
本当に単品で見れば悪くなさそうなストーリーなんだが……トイ・ストーリーとしては、まあ、☆3で。
困惑…!!
言いたいことは色々あるんだけど、とりあえずモヤモヤと困惑がすごい…。
中華料理店で美味しい中華を食べて、「この店美味しかったからまた来よう」と、来店の度に味付けの変化や料理が洗練されてきてるのを楽しんでたのに、ある日同じ店に行ったら看板はそのままなのに、いきなりインドカレーが出てきた感じ。
「いや、おいしくはあるんけど、中華料理食べに来てんだから中華が食べたいんだけど…。インドカレーが食べたい時はインドカレーのお店に行くんだけど…」という感じ。
(インドカレーはインドカレーで大好きなんだけど、要は困惑したということを言いたい。)
例えが悪いけどまさにこんな感じだった。
あとボーかせっかくまた出たのに色んな製作側の思想とかストーリーの都合を背負わせすぎ…。
ボーに限らず製作側のキャラクターへの愛が感じられないのが残念。
ストーリーを実現するために、ストーリーありきで既存キャラクターを当てはめてる感じが見てとれてモヤモヤしてしまう。
うーん…。
ちゃんと卒業できていますか
持ち主も成長して卒業した。
かつての恋人も成長して卒業していた。
そして、ウッディも成長して卒業してゆく、そのタイミングの物語。
同時に
観客にも問い掛かる。 「あなたも、ちゃんと成長して、卒業できていますか?」
ちゃんと成長して、卒業できている人には、この映画は肯定的に見えるだろう。
まだ成長している最中の人には、背筋にナニヤラ居心地の悪いメッセージとして、否定的に見えるだろう。
僕の中の まだ成長したくない部分の僕が、ちょっと寂しくも感じたラストだったけれども、
僕はウッディの選択を、意思を、肯定してあげたい。応援してあげたい。
ウッディは偉いよ。
玩具の役割として、子供を見守り、ちゃんと成長させて、卒業させるところまで、
迷いながらも、自分の生き様で示してくれる。
(次回作あたり、移動遊園地すらも飛び出し、もっと広い世界へ飛び出すかもしれない!)
玩具仲間たちも、既に成長して旅立ったものもいる。
残ったバズたちにもいずれ、ひょっとしたら、そういう時が来るのかも知れないね。
アメイジングトイストーリー
新しく生まれ変わったボー・ピープを主人公にした、全く新しいトイストーリーです。
この作品は、トイストーリーの続編、シリーズものとして楽しむのではなく、キャラクターは同じものを使いつつ、これまでとは隔絶された単品として観るべき映画です。
スパイダーマンとかバットマンだって、キャラクターは同じでも、中身は全然別物ですよね?
そんな感じで、あぁ、これはこういう新しいトイストーリーなんだ、そう見ると、色んな良さが見えてきます。
事実他の人のレビューを読んでると、これまでのトイストーリーの中ではこれが一番好きかなとか、前作知らずに見たけど楽しめたとか、そういう意見もあります。
1〜3のシリーズに縛られず、新章、別シリーズ、ドラマ版みたいな感じで見ると良いはずです。
一方で、もしトイ・ストーリー3の続編として捉えるなら、こう言わざるを得ません。
金を儲けるために、最高の作品の続編を作れという無理難題に対して、必死に絞り出して作った、愚作だと…
ファン全員が思っていたことですが、やはり4を作れというお題がそもそも無茶だったのです。
トイ・ストーリーは、あらゆる面で、3で完全に完璧に完結していました。
世界初の長編3Dアニメーションという表現としても非常に意欲的かつおもちゃのバディムービーという新しいジャンルを切り開いた1から始まり、魅力的なキャラクターの追加とおもちゃとしての幸せの在り処を描いた2、公開時期に合わせてアンディをリアルに成長させる演出、高クオリティな映像とアップダウンの激しいストーリー、アンディの決断、お母さんの表情、おもちゃの悲哀と友情、登場キャラクターそれぞれに感情移入できるよう設計された、老若男女全てが楽しめる映画史上に残る傑作の3…
この続きをいくら普通に作ろうとしたって、重箱の隅をつつくような、薄味のものになってしまうに決まっているのです。
トイストーリーという名前である以上、おもちゃのルールに縛られるし、キャラクターに縛られるし、3を超えて4を作る必要性も描かなくてはならない。こんなハードル高すぎます!
案の定、まだ使われてない、またはもう一回使えそうなおもちゃの悩みはコレかな、キャラクターを増やす、または戻すとしたらコレかな、ギリギリ変えれそうなキャラクターの設定はコレかな、予想を裏切るラストはコレかな…
そんな縛りだらけでは、当然映画なんか作れませんので、おそらく製作陣は「4を作る必要性」ということを最優先事項にして、つまりラストシーンのためだけに、映画を作ったのだと思います。そのせいで、シリーズとしては矛盾だらけ、既視感満載、影の薄い仲間たち、といった燦々たるものになりました。
ウッディの性格なんて、今更言われるまでもなく分かってますし、フォーキーのゴミのくだりだって、3がもっと重々しく語っています。ゴミ文脈でいうなら、焼却炉のあの絶望感に勝てるわけないでしょう。デューク・カブーンの跳べない設定は1でバズがやったやん。オマージュ?見逃し配信?
ジェシーの閉所恐怖症は、サイドストーリーの「トイストーリーオブテラー」で乗り越えてるはずですし、同じ話に出ていたカールって仲間を無視するようなキャラだっけ?まぁ別モデルなんでしょうけど。
バターカップの毒舌は正直どうでもいいけど、なんであんな事を考えるかわからないし(おもちゃを踏んづけるお父さんを恨んでた?)、みんなでクルマをぐっちゃぐちゃにして、なんで持ち主のことを考えないの、こんなんでウッディなしでやって行けるの?
今回解決策としておもちゃのルールを逸脱し過ぎ。しゃべりすぎ。それでいて新キャラのダッキーとバニーがルールを侵す提案をして笑わせようとする。いやいや、やってることほとんど変わらないから。より大袈裟なルール破りを見せる事で、大目に見てもらおうとしていることが小賢しいですよね。もっとオモチャならではの解決策を考えてよ!なんでもありやん!
そもそも、バズのボイスにあんなバリエーションはなかったはずやんね。赤いボタンを押すたびに出てくる無限のボイスバリエーションこれなに。突然あらわれた「心の声」という謎の設定をクリアするためだけの機能でしょ。
ふざけんなと言いたい。
誰が共感するんですか、あの行動原理に。
トイ・ストーリーの面白さは、それぞれのおもちゃが、生まれながらの自分の設定を乗り越えて、自分の意思を持って行動することじゃなかったんですか?それこそが、心の声に従うってことじゃないんですか?
ボイスは自分のおもちゃとしてのただの機能なのに。よりによってなんでバズを、主人公だったはずのバズを、前作を否定するための胸ポチポチバカに変えちゃうんだろう。凄く悲しいです。
とまぁ、不満が無限にでてきますが、これって見る側に先入観があるからなんですよね。
トイ・ストーリーという世界でのルールはこれだとか、1〜3のシリーズを踏襲してると思うから、そう考えてしまうんです。
だから、全く別物として楽しむべきなんです。
サム・ライミ版とアメイジングとMCUのスパイダーマンは色々違うけど、まぁべつによくて、その上で自分はこれが好きかなーみたいなのがあるじゃないですか。
ターミネーターだって、2が最高だけど、そのあと作る続編も、一個前のを無かったことにしたり、てんやわんやしていたら、見てるこっちは、あぁこれはもう別のターミネーターだよねって、思い始めますよね。
そこまでいくと、もう記号でしかなくて、これからいくつターミネーターとして駄作を作ろうと、2の感動は薄れはしない。
トイストーリーも4以降は、こうあるべきなんです。3で完結して、4は全く別物だと。そうすると、無駄な水増しで、3までの感動、完成度を薄めなくてすむ。あぁ、こういう解釈もありかもね、実はそこだけは気になってたんだ、ふむふむ、それも面白そうですね、そんな感じ。
冒頭に述べましたが、こう考えると、良い部分が見えてきます。
ボーはいいですよね。
この映画で一番かつ唯一存在感を発揮しています。
元々自分の女性としての魅力を理解していて、それをしたたかに利用するセクシーで芯のある女性でしたが、そこから数年の苦しみを乗り越えて、吹っ切れた視座の高さと、前向きさと、アクティブな強さを身につけている。割れやすい陶器という設定も、割れたって気にしないわって感じで突き進む。
プリンセスでいうと、ボーはアニメ版のジャスミンに近いのかなと思っていたのですが、実写版アラジンよりもはるかに上手に、成長という過程を挟んだ上で、現代風の自分の意志で生きる女性にリファインしています。
ただ、ウッディにあんだけチューチューしていた過去、恋人だった過去は、無かったことになってます。あぁ、元彼なんてこんなもんですよね…。
ダッキーとバニーも可愛いですよね。ラストのレーザーのくだりとか、制作側が遊んでいる感じがして好きでした。チョコプラは吹き替え上手です。
あと、嬉しいのはブリキのおもちゃティニーの出演です。トイ・ストーリーの原点と言われている、ジョン・ラセターの短編CGアニメーションの主人公がティニーでした。一瞬の出演でしたが、可愛かったなぁ。フィギュア欲しい。
それから敵側に関して。
ベンソンは、ストレートに怖いですよね。あーまだ腹話術の人形って使われてなかったんだ、良いとこ突いたなって。3のビッグベビーみたいな深い設定はゼロで、最後に救われるわけでもない使い捨てキャラだったけど。ホラーでした笑
ネコの扱いはひどいですね。1のシドの犬スカッドみたいな完全な悪者で、キャラも使われ方も被ってます。名前もないし、完全なゴミキャラでした。
ギャビーギャビーは、だいぶ問題児ですけど、リアルにいますよね、ああ言う人達。可愛そうな子なんですよ。生まれ持ったハンディキャップだけが、自分が愛されない原因なんだと思い込んでいる。でもそれが間違いだったことに、残酷な方法で気づかされる。
最初のボイスボックスのくだりは、ウッカリ、怖い!とか変な声!って笑っちゃいましたけど、本当は生まれつきの故障で、本人は本気で悩んでいる部分だってわかった時は、結構グサリときました。
思いがけず人を傷つけてしまうこともある。人間社会でも気をつけなきゃって。
と、ちょっとこちらが同情しそうになった瞬間、この映画は今度はギャビー側に痛烈な反省を促すんですね。
勝手にコンプレックスを持って、そのせいで愛されないと思い込んでいたけど、逆に、それ以外の自分の改めるべき心に目が行っていなかった。自分が一番可愛そうなんだから、他者が自分のために犠牲になるのは当然だし、そいつがどうなろうと知らないよ、というエゴにまみれた心です。
周囲が理解することはもちろん大事だけど、自分が辛いからと言って変わる努力もせず、権利の獲得と承認を声高に叫ぶのはどうなのか。そう訴えているように思えます。
結局生きて行く上で大事なのは、勇気を持って自分の心を変えること。そうすれば、必ずどこかに自分を認めてくれる、必要としてくれる人がいるということなんでしょう。ギャビーのラストはそういう救いがありました。
(まぁそれならそれで、直った声をもう一回ぶっ壊すとかして、心を入れ替えることにフォーカスしたほうが良かった気がしますが…)
ラストシーンは、こうするしかないでしょう。
単純に、仲間たちとの別れのシーンとして、泣けました。
このシーンはまた、ハッキリと過去作と決別することを意味しています。
3のラストの感動は、アンディが「ウッディにとって一番の幸せはなんなのか」を考えた瞬間にありました。おもちゃ側からすると、「またその子が大きくなり、捨てられる時が来るかも知れないけど、永遠ではない一瞬一瞬を大切に過ごそう」という意志がありました。
命あるものの儚さ、人間もおもちゃも、限りある命をどう生きるのが幸せなのか。何が正解かはわかりませんが、少なくとも彼らが選んだ一つの答えが提示されていました。
一方4のラストは、おもちゃとして「生きる」のをやめ、ある種の精霊みたいなものになることを決めたのです。
これを人生の新たな選択肢だとか、役割からの解放だとか、そういう風に解釈する人もいますが、僕は違うと思います。今回のウッディの「おもちゃであることを辞める」という選択は、ファンタジーの中のおもちゃ(トイストーリー)だから出来ることであり、現実の人間が選べるものではない。人間をやめるには、人の間にいることを拒絶する、つまり、世間から隔絶し空想の世界で孤独に生きるか、死を選ぶしかないのです。
(「おれは人間をやめるぞ!ジョジョーッ!!」とか言って吸血鬼になるのはありかもしれません)
このラストでウッディは、私たちが親しみを抱くおもちゃではなく、「トイストーリーというおとぎ話のキャラクター=ウッディ」になる事を選んだのです。
だから、今後はなんでもありです。
おもちゃとしての自分の役割との葛藤は無くなり、ウッディ&ボーが世界を冒険するアクションムービーへとなり得ます。
こうなると、おもちゃである必要はなく、動物が主人公でも一緒です。ペットではなく、何からも自由な野生の鳩やネズミですね。
大きく方向性を変えたので、トイストーリー5だろうが、サイドストーリーだろうが、なんだって作れます。
また続編が作れるよ。良かったね、ディズニー。
でもいくらナンバリングタイトルが出て来たって、トイ・ストーリーは3で完結しているんです。
トイストーリー4は、今は間違って4って付いてますけど、おそらく後付けでアメイジングトイストーリーとか、トイストーリーホームカミングとか、そういう感じになるんです。
ウッディは既におもちゃとしての「声」を失いました。もうおもちゃとして子供に語りかけることはありません。
寂しいけど、商売だ、仕方ない。
新しいトイストーリーを温かく見守っていきましょう。
ビター感がたまらない
トイストーリー 3が完璧だったので4を制作していると聞いた時は蛇足になるよ、、と思った私が馬鹿でした
ピクサーは凡人には想像できないその後の完璧なストーリーを届けてくれました
前作では作品と共に大きくなった青年アンディがボニーにウッディたちを大切にしてねと、、あばよ相棒、、で涙が止まらない最高の終わり方だったんですよね
今作ではボニーは呆気なくウッディに飽きてしまう、、
ここがめっちゃいい、、これがリアル
まだ幼ない子供が、おもちゃをずっと大切にできるわけもなく、アンディの想いとか知る訳ない、、
ギャビーギャビーもいらないと言われてしまう、、
年代物のおもちゃには惹かれない、、それが自然
おもちゃの宿命でもあり、子供時代の自分も思い出してしまうんです
好きだったおもちゃ、物を大切にすることの意味が分からなかったこと、片づけなくて怒られたこと、嫌いだった遊び、マンネリしたおままごと、無くなったことさえ気がつかなくなったおもちゃ
日々増えていく世の中のおもちゃたち
フォーキーやデュークカブーンなどの新しいキャラクターたちも魅力的でした
後半のウッディとギャビーギャビーとの取引は胸が痛かった、、
葛藤するウッディがおもちゃでありながら自我を持ち成長しているのがよく分かります
そして仲間とのお別れも、、
物理的に一緒にいるのが友達じゃない
どこにいても思い合えるのが友達
今作では内なる声(自我)があることで
おもちゃの数だけの幸せ、役割、苦悩、選択
出会いと別れが際立ちました
まさにトイストーリー
甘いだけだとぼやける、ほろ苦さがあるから深みがでる
塩っけがあるとしまるし、スパイスがあると幅が広がる
人生はチョコレートみたいですね(謎)
このシリーズで個人的に好きなのはバービーとケン
バズとデュークカブーンのようなキャラクターは殿堂入りです笑
デザイナーの目から観る今作
上映されていた頃、「ウッディが女と逃げて仲間たちを置いてサーカス団みたいなとこで生涯終える」という前情報を見てから、ずっと避けてきました、
が、友達に「ボニーにウッディは愛されていなかったんだから、しょうがない」という意見を聞いて、ちゃんとトイストーリーファンとして目で見て確かめようと思って視聴。
まず久しぶりに見たオープニングのディズニーの塔。
・・・・・こんなチープやったっけ??( ゚д゚)
トイストーリー3のと比べると、夜から夕べにライティングが変更されてて、これがまず(のっけから)クソダサい。夕べに花火ポコポコ打ち上げるか?!城の上に虹のようにキラキラがかかる演出もライティング強すぎて目立たない。劣化してる・・・。
映像技術が進化してると評判は良いようですが、色々と違和感。
まずウッディがツヤツヤしすぎてオモチャの感覚がしない。目のドアップシーンとか、眼球になんの汚れもない。首と頭のつなぎめが、なめらかすぎて木のソレではない。動きもカクカクしてないからウッディってよりもはや人間に見える。
新キャラたちは楽しめた。でもカナダのバイク乗りさん(クラッシュする人)は、crush(突撃)とcrush on(片思い)をかけてるキャラだと思った。吹き替え版でここが伝わらないのは惜しい。彼は元の持ち主に1番クラッシュ(片思い)してるキャラだから・・(笑)
バズは「内なる声」を自分の音声ボタンと勘違い。でも私はここは1作目の思い込みやすいバズに原点回帰って感じで良かった。比べて、ウッディ・・・キミはフォーキィに終始執着していたね、自己投影して・・。
一作目でバズに「おもちゃだ!!」と言ったウッディが「ゴミじゃない!!!」と言い続けた結末が、
四作にきて「もうおもちゃとかゴミとかいいから旅立とうぜ!!!」になった感しかない・・。
(考えすぎるよりウッディも「内なる声」聞いたらどう?「あんたはオレの相棒だぜ!」って)
結局、足に書かれたボニーのマークも、アンディの意志も、どっか行きましたね・・。
他にデザイナーとして気づいた点、「モンスターユニバーシティ」でもやってましたけど「陰影だけで善悪/心のゆらぎ」を表現するのやめましょうよ・・・。
悪役の女の子ドールがまさにそれの多用すぎ。ライティングして良い子なのかな?影つけまくって悪役です!いやまたライティングして・・のくりかえし。技術が上がったとはとても思えない、細かく言えば1フレームで動かないとこが多すぎる。Mr.インクレディブルの時は細かく動きまくってたじゃないですか。
最後に、この時期のディズニーさん、「プーと大人になった僕」でもそうでしたけど、「主人公が自己投影して葛藤しながら霧の森の中歩く」のハマってたんですかね?
だったらプーさんの映画がこの主題を明確に語っていたでしょう・・
PS;クリストファーロビンという唯一の救い。
彼は大人になってもプーを思い出して探しにきてくれた。プーは捨てられたとも思わず待っていた。そこに大事なものがあったんじゃないですかね・・
期待はずれ
終始ボニーはウッディに対して特別な想いはおろか、無くても気づかないくらいの気持ちしか抱いていないことに腹が立った。アンディにとってウッディは昔から1番の宝物で、前作では大学にまで連れていこうとしていた程の存在だったのを、ボニーがウッディに対して特別な想いを抱いているのを感じたアンディは、辛い気持ちを振り切ってウッディをボニーに譲ったという流れ。これまでの様に、新しいオモチャが良すぎたからであったり、成長してオモチャでは遊ばなくなったりなど、何かしらの明確な理由があるならともかく、前作であんなに特別な想いを向けていたウッディで遊ばなくなったの理由も、それらしいものは最後まで見つからず、個人的にはボニーに対しての印象が少し悪くなった。終わり方もイマイチ納得できない感じだったし、正直最高の作品であった3の印象をただ損なっただけの作品って感じ。ストーリー自体は面白かったので、これまでの作品をみてない方ならまだ楽しめそう。
とてもよかった
ぐんとCGの見栄えがよくなっている。
フォーキーはキャラが立っているし、ボーとの再会は胸が熱い。しかし、いなくなって連れ戻すパターンでずっと同じ話で続けて見ると食傷気味だ。ウッディがみんなとの別れを選んで本当にシリーズが終わるみたいだ。ボーとは古い仲だろうけど、ジェシーとかブルズアイの方が同族の仲間でないのか。音声の部品も奪われたまま終わってしまった。
子どもと一緒に見ようとしていたら、電話やスマホの入力を急いでやらなければならなくて、一緒に見ることができなかった。夜中に吹替字幕で一人で見たのだけど、子どもと一緒に見ていたらどんな印象だったのだろう。1作目から見ていない長男が見ていたので、とても悔しい。再生していれば子どもは見るけど、誘ってもあまり見てくれず、ポケモンを見終えた後でやっと一緒に見てくれる。うちの子はあんまり好きではないようだ。
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