幕が上がるのレビュー・感想・評価
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広がり続ける宇宙の果てには行けないけど
部活と受験、進路に悩む姿に自分の高校時代が思い出される。
生徒の人生を狂わせるかもしれないけど全国に行きたいと言った吉岡先生自身、自分の演劇をやりたいという気持ちの為に教師をやめてしまう。
それでも、遠いところまで連れてきてくれて、自身も人生を賭けてやりたいことをやっているからこそ、部員達はそんな先生を理解して感謝できるのだろう。
高橋さおりの母親も、最初こそ受験だ進路だと言っていたが、やりたいことを見つけて打ち込む娘の姿に理解を示していく。
学生時代の記憶が蘇ると共に、もう一度生き方を考え直させてくれる映画。
文字通り幕が上がり、これからまた新しいステージが始まり続いていくんだという終わり方も良かった。
フレーズとして印象に残っているのは、「嫌いなところがあって好きなところがあるから本当」。思わず納得してしまった。
華あり!
黒木さん見たさに封切り行って来ました。さすが助演賞女優。ある種の敵役だけどよかったな。特に一人芝居の肖像画を演じ終えた後の表情に萌えた。
ももクロはももクロでなくてもよかったなという程度の存在感で、気にならなかった。結構うまいんでないかな。前にテレビでちらっと見た時とは違って見えた。
音楽はアイドルソングでないとダメなのかしらね。映像が綺麗なだけに、もう少し別の選択肢もあったかなと。
平田原作と喜安脚本の勝利で、リピートありです。
泣いた
ももクロの本格的初主演映画。
油断してると泣かされます。
途中のあの場面でのあのピアノのワンフレーズは
涙涙のあの美しき青獣を思い起こさせます。
最後は泣きながらワクワクしてました。
素晴らしい青春映画です!
破壊的に清々しい
事前に原作を読んでいた僕は、作品の終わりをどう括るのか、そのことが最大の気がかりでした。終わりよければ概ねはよしとする僕の映画の哲学。20日のさぬき映画祭LVでやっと鑑賞。その気懸りは粉みじんになるほどの、心地よい清々しい終わり方でした。
この作品全体にいえることですが、嫋々としたもの・過剰なものを取り払ったまっすぐな物語の展開、でも単純ではない、ここにすべての魅力の伝播する源泉があります。そして全編を蔽う「銀河鉄道の夜」の哲学。切なくもあり、美しくもあるー。一人だけど一人ではない!!1度ではもったいないくらいの魅力の詰まった映画でした。勿論、僕はまた行きますが。
ももクロ以外の演劇部の女優達も魅力的でした。忘れず付け加えておかなくては、です。
これは余談ですが、さおりと中西さんが話し込む駅のホームのシーン、その駅名、意味ありげですよね!?
幕が上がる(ももクロver)
この作品はももクロの為にアレンジされた作品。
原作の雰囲気を生かしながらもキーとなる部分(特にわび助&中西さん)に手を加えている作品。
原作ファンの皆さんには異論があるかもしれませんが間違いなく良い作品。
アイドル映画と言うジャンルで括るのはもったいないTHE青春映画。
モモノフが言うと説得力が無いでしょうが、ももクロファン以外の方々にみてもらいたい作品。
彼女らはやりまっせ、びっくりするぐらい作品に溶け込んでいます。アイドルだってやるときゃやります。特に黄紫がお勧めです。(自分緑押しですが)
ももクロなんてと言う方は黒木さんを見に行くだけでも得した気分になる作品
青春の輝きは、小さな現実の積み重ねにある
原作で、台本を書いている高橋さおり(さおり)に吉岡先生は言う。
「この小さな街に生きている高校生たちの、日常が立ち現れてくるといいんだけど」
また、東京合宿で劇団の舞台を観たさおりは、次のように考える。
「繰り返し繰り返し、色々な思い出のシーンを綴ることで、中学生のなんだか切ない感じが伝わってきた」
「一生懸命とも違う、正確に再現する。何をだろう。何かを再現している。これが吉岡先生が言っていた「立ち現れる」って感じ?」
この映画は、小さな街に生きている高校生たちの日常が立ち現れるように撮られたものである。では、『高校生たちの日常』とは何だろう?
さおりの母親は言う。
「やりたいことがあってくれれば、それでいいのよ、だいたいの親は」
自由だ。自由過ぎる。宇宙空間のように端が見えない。
若者は、どこにでも行ける切符を持っているというが、発車時刻までそんなに猶予はない。どこにでも行けるけど、どこに行くのか決められないんだ。困ったな。
進路は決まったかって?GPSも地図も路線図も方位磁石すら手元にないのに、どうやって進路を決めればいいのか分からないよ。
それなのに、大人達は、青春なんてそんなもんだから、とりあえず君の自由にやってみればいいと笑って済まそうとする。
僕たちはみんな不安なんだ。みんなそれぞれ、ばらばらの不安を抱えている。それを『青春』でひとまとめかよ。
(とまあ、これは、原作にも映画にも出てこない。私が高校生になったつもりで毒づいてみただけ。)
ここで、ちょこっと映画の話に移る。
中西悦子(中西さん)は、演劇強豪校から来た季節外れの転校生だ。
演劇への情熱は人一倍強い彼女だし、演技力だってあるが、それだけに、自分の持つ短所のせいで部へ負担をかけたくないと演劇部を止めて転校してきたのだ。彼女は、自らの意志で一人になった。
カンパネルラ「僕たちはいつも一緒だけど、でも僕たちは離ればなれだ。宇宙が膨らんでいくように、僕たちの間も広がっているんだ」
駅のシーン。さおりは、中西さんに、あなたは一人じゃない、今は二人だと言った。中西さんは、カンパネルラだ。となると、ジョバンニはさおりか?いいや、もっと適役がいた。
橋爪裕子(ユッコ)は、演技の才能はあるものの、さおりといっしょに演劇をやっていることで満足している。最近、作演に専念したさおりが台本を書き上げ、演出の腕も上達していくのを見て、置いて行かれていくような焦りを感じている。
東京合宿で演劇部OGが参加する舞台を観たときの彼女は、何か思いつめたかのように浮かない顔をしていた。OGと談笑している部員をよそに、彼女だけは笑顔ではなかった。新宿の夜景を観たとき、たまらず彼女は落涙する。彼女の中の何かが弾けたのだ。
(いつまでもさおりといっしょに演劇をできるわけではない。いつか、ばらばらになるときが来る。そのとき、一人になった私は、どこで何をすればいい?)
ジョバンニ「どこまでも、どこまでも一緒に行きたかった。でも、一緒に行けないことは、僕も知っていたよ。カンパネルラ、僕には、まだ、本当の幸せが何か分からない」
これは、まさに、ユッコが言うべき台詞だろう。強豪校の実力を持つ中西さんに嫉妬し、力を付けてきたさおりに嫉妬していたユッコが、自分にとっての幸せを見つめ直す。
となると、さおりは……ああ、クルミだ!
離ればなれになったように見えるジョバンニとカンパネルラを繋ぐものがクルミだとしたら、卒業後、それぞれの道を進む演劇部員を繋ぐのが、さおりの書く台本、さおりの演出、そして、いつか設立するだろう、さおりの劇団なのだ。
話を戻して。
原作で、さおりは言う(映画でも同様のことを言うが、全文覚えていない。)
「私にとっては、この一年、演劇をやってきて、とにかくいい芝居を創るために悩んだり、苦しんだり、友だちと泣いたり笑ったり喜んだりしたことの方が、よっぽど、よっぽど現実だ。この舞台の方が現実だ」
「私たちは、どこまでも、どこまでも行けるけど、宇宙の端にはたどり着けない」
「どこまでも行けるから、だから私たちは不安なんだ。その不安だけが現実だ。誰か、他人が作ったちっぽけな「現実」なんて、私たちの現実じゃない」
このレビューの冒頭で、私は『高校生たちの日常』とは何だろう?と自問した。
答えは、さおりの発言の中にあった。高校生たちの日常とは、不安であり、悩みであり、苦しみであり、泣いたり笑ったり喜んだりすることなのだ。そして、その小さな現実の積み重ねを、愚直なまでに繰り返し繰り返し描くことが、『立ち現れる』ということなのだ。
ばらばらなものを一括りにして『青春』と呼んで済ませているわけではない。『青春』とは結末のことではなく、小さな現実の積み重ねなのだ。だから、ばらばらだからこそ『青春』なのだ。
この映画は、地味な映画である。高校生の日常なんて、そんなに派手な出来事ばかりが続くわけがないのだから、当然だ。あまりにも地味なので、監督が遊びに走ったシーンがあるくらいだ(やや浮いているシーンだが、まあ、人間テンパれば、あのくらいの悪夢を見ることがあるかも知れない。夢なんだから、浮いてるくらいで丁度いいんだろう。)
でも、地味だからこそ、この映画は、高校生の日常が立ち現れている。小さな現実のひとつひとつが、きらきら輝く宝物として丁寧に描かれているからこそ、高校時代を過ごした私達の記憶を鮮やかに呼び起こす。
この映画は、大会の結果を描いていない。それは、青春の本質を描くに当たって重要なのは、小さな現実の積み重ねで日常を描くことにあり、結果は重要ではないという監督及び脚本家の判断なのだろう。
実際、大会の結果を描くということは、必然的に、ひとつの時代が終わる瞬間(この映画の場合、4人の3年生が引退する瞬間)を描くことに他ならない。それよりも、演劇部の部員達が最高に輝く瞬間、幕が上がる瞬間で映像を終わらせる方を選んだのである。
実は、彼女達は劇中劇『銀河鉄道の夜』を丸々演じることができるのだが、あえて映画で映していないのには、舞台化が決まっていることが関係しているかも知れない。
舞台の雰囲気は、舞台でしか伝わらないということだろうか。だとすれば、それだけ、完成度が高いことの裏返しであるようにも思える。
幕が上がった直後、やや唐突に、主演を務めたももいろクローバーZの歌とダンスが始まる。
これは、この映画は、あくまでも『アイドル映画』であるという監督のこだわりであり、アイドル映画の復興を祈る監督からのメッセージだろう。良質な青春映画という評価が大きくなり、アイドル映画という評価が小さくなってしまうのは、監督の本望ではないのだ。
監督は、彼女達と競演した際に、彼女達が放つきらきら感が、この原作が持つきらきら感に通じると感じて、この映像を撮ったのだろうか。歌い、踊っているのは、明らかにももいろクローバーZなのだが、制服姿の効果もあって、映画キャストの4人がミュージカル仕立ての演劇でもしているような不思議な錯覚が起こる。
さて、アイドル映画といえばアイドルの存在というやっかいな問題がある。
普通、アイドルはテレビを通した姿と映画の姿では違って見えるものである。片やアイドルを演じ、片や映画のキャストを演じるのであるから当然だ。そうでなくとも、表と裏の姿は見え隠れするものである。だから、表のイメージを壊したくないからと、アイドル事務所側から、いろいろ注文が入ることも少なくないらしい。
ところが、この映画では、その手の違和感が全くない。演技が自然だ。なぜだろうか。もちろん、平田オリザのワークショップを体験した効果は大きい。でも、それだけではなく、彼女達グループの成り立ちや歩みが関係していると思われる。
ももいろクローバーZは、鳴り物入りでデビューしたアイドルグループではない。むしろ、メンバー達はアイドル志望でもなく、女優の育成プログラムの一つだろうくらいにか思っていなかったくらいである。
彼女達もまた、何をするとも、どこに向かうとも知れない不安を抱いたまま、路上ライブから始まり、ETC休日1,000円を利用した車内泊しながらの全国ライブ等、小さな現実をひとつひとつ積み重ねていったのである。そして、彼女達は、その積み重ねの過程を、舞台裏も隠すことなく見せてきた。
ももいろクローバーZの最大といっても過言ではない特徴として、共演者による彼女達への評価が「裏表が全くない」ということが挙げられる。そもそも、裏表を作る意味がない環境で活動をしてきたからなのだろうか。そんな彼女達だからこそ、アイドルというファンタジーに属していながら、日常的な女子高生として映画に姿を現しても違和感がないリアルさを持ち合わせているのである。
地味に、高校生の小さな現実の積み重ねを撮っていく映画では、リアルさを出してもアイドルとして違和感がないももいろクローバーZは最適だったといえるだろう。
高橋さおりの成長物語
普通の女子高生が様々な出会いと別れを経て、演出家として成長していく様を描いた作品です。ももクロの主演映画とありますが、実際は主人公の高橋さおりこと百田夏菜子の主演と言い切って良いでしょう。
高校演劇の世界は関わった人じゃないと理解できないものかもしれませんが、そのあたりは序盤で詳しく解説してくれます。もちろんさおりの一人語りという形で。終始彼女の視点で撮られているので、物語の序盤と終盤では性格はもちろん表情や口調まで様変わりしていて、その成長度合いが映画の中でもよくわかるようになってます。
映画の舞台は静岡県富士市がメイン。富士駅からも見える製紙工場や真夏で頂上に雪を頂いてない富士山、地元の岳南鉄道も随所に映し出されていて、地元香川県をこよなく愛し何本も映画を撮ってきた本広克之監督ならではのこだわりが感じられます。さらにこの映画では大都会東京での夜景もあるのですが、地元の田舎の空と東京のネオンの渦を対比させることで主人公の心情、環境、立場等を飛躍させていく様を宮沢賢治の銀河鉄道の夜という劇中劇のごとく描き出しているのが面白い。僕のような田舎育ちの人間が初めて上京した時の興奮というのはやっぱり忘れられないもので、地方出身の本広監督はもちろん主人公の百田夏菜子にもぴったり合っているものなんでしょうね。
アイドル映画を観るのは大昔の小泉今日子主演の生徒諸君以来のことですが、薄い記憶をたどってみるといかにアイドルの魅力を引き出すか?に主眼が置かれていた気がします。この映画ではそのあたりには主眼が置かれてはいない様で、出会いと別れ、受験と演劇の狭間での葛藤、このまま演劇を続けて大丈夫なのか?といった心理描写の方に重きを置かれている。ももクロの他のメンバーは全員がその出会いの中の一人というのが基本的な立ち位置で、そういう意味ではさおりに神様とまで言われた吉岡先生と変わりません。さおりとの関わり方も誰かが特別濃い絡みをしてるのかというわけではなく、まるでももクロの他メンバーや演劇部員等は映画の中でさおりが指示しているかのような演技ですね。一方の吉岡先生こと黒木華は最初から最後まで憧れの人で終わるのが面白いところ。憧れる人がどうなるか?はこの映画の最大の見どころでもあります。
本広監督がももクロファンということで、ももクロを詳細に知っているならではのシーンが随所に見られるのがモノノフとしては嬉しいところ。劇中での音楽やジュース等の色、本人の年齢や経歴、そしてももクロ自身の物語性とも重なっているのが手に取るようにわかる。そして主人公はさおりの一人称ですが、実はももクロ5人とさおりがオーバーラップしているのです。普通の女の子が適当に集められて、紆余曲折を経てスタジアム級のアイドルとなり、紅白歌合戦にも出られるようになるストーリーはこの映画そのもの。人間としての成長とアイドルでの成功を描くももクロストーリーはさおりの演出家としての自立物語なんですね。
この映画は若い人はもちろん、私のように四十過ぎて少々のことでは刺激を感じられなくなった中年が、若き日の目が輝いていたころを思い出すためにも(笑)観られることをおススメします。
ファン目線ではありますが
舞台挨拶で観に行きました。
ファンだからこそ、期待せずに観てみよう心掛けて観たつもりです。
演技の外の姿を知っているので、画面の中での彼女たちの成長をより感じることが出来て、ファンとしても大満足なアイドル映画です。
天龍さんの声と三宅アナのちょい役感やムロさんの弄り役には笑わせて頂きました。
普段アイドルをしているメンバーの演技について
私は、高城れにさん推しなのですが、
主人公をした百田夏菜子さんと有安杏果さんの演技が印象的でした。
百田さんはファンの前でいつも元気でおバカな女の子なのですが、劇中では周りに意見が言えず不満を爆発させる役をおり、メンバーの中でも1番演技の成長を感じられました。
有安さんは、子役時代からのキャリアを感じさせる演技をしていましたね。特に、感情を大きく出す場面の演技が素晴らしかったです。
高城さんは、役がそのまますぎて演技をしているのかわからなくなる時がありました。かわいかったですけどね。
この映画が彼女たちの演技の(到着点)だとは思えないので、もっといい女優になることを願って星4つにしました!
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