私の少女のレビュー・感想・評価
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好みな題材 なんか温度感がなかった。夏なのに暑そうじゃないしお風呂...
好みな題材
なんか温度感がなかった。夏なのに暑そうじゃないしお風呂もご飯も温っかそうじゃなくて冷たかった。
子役の細さだけがやけにリアルだった。
私的な助けと犯罪との境。言葉のあやと事実との相違。
警察という職業とぺ・ドゥナがカッコいい
左遷された女性警察官。そこで虐待を受ける少女と出会う。 この少女が...
救うことと救われること
この映画が公開されて10年。少なくとも、表だって「同性愛者であることが明らかになること=左遷の理由になり得る」という世の中ではなくなった。けれど、差別する側が、自覚のあるなしに関わらず、都合よくルールを変えて、相手を蹂躙するというやり口は今も変わらない。
幼いドヒに対し、日常的に暴力を振るう継父。それを知っていながら「彼はこの村には、なくてはならない若者だから」と、継父をかばって見て見ぬふりをする周囲の人々。その様子はまるで「◯ちゃんがいなくなったら、テレビは終わる」との言葉が飛び交い、被害を訴える人たちをこき下ろすどこかの国の今みたい…。
この映画は、「虐待を受けていた少女を救う、左遷された女性警察官の話」と単純には言い切れない。「画面に登場するステレオタイプの人物たちに惑わされず、自分の単純さを疑え」と、監督に問い続けられているかのようだ。
例えば、ドヒを受け入れたり、一見冷淡に思えるほど距離を置いたりというヨンナムの行為も、単純ではない。彼女自身が自分の思いを整理出来ていない様子の表れと見るべきだろう。警察署での取り調べの際に彼女が発した言葉に嘘はないだろうが、ドヒの依存を自分一人で抱えようとしている時点で、彼女自身も自覚なしにドヒに依存していたのだと思う。
それでも最後に、ドヒを「虐待を受けてきてかわいそうだが、彼女自身にも問題がある子」という、周囲の大人たちみたいな分かり方をせず、生身の彼女と正面から向き合おうとするヨンナムの覚悟に惹かれる。
ラストシーンの車の中で、無防備に眠るドヒ。
ヨンナムと共にいる安心感が伝わって来る。
救うことは救われること。
きっと、これからヨンナムも少しずつ安らいでいくことだろう。
「あしたの少女」のチョン・ジュリ監督の、初の長編映画ということだが、クオリティの高さに驚いた。
なかなか深い話
暗雲と驟雨に囲まれた未来
虐待を受ける少女と性的マイノリティの女性警察署所長という取り合わせから、幾重にも重なる弱者性を動力に現代社会の差別性を穿つ告発系か、あるいは社会から透明化された者たちのささやかな交感と立ち直りを描いたエンパワーメント系の映画を我々はなんとなく予期する。しかし物語はそういった安易な着地をみることなく、最後まで疑念と懊悩の靄の中を曳航し続ける。
まずもって我々(そしてイ所長)は虐待を受ける少女ドヒのあからさまにセンシュアルな描かれ方に困惑する。暴力を振るわれ、数多の傷跡が残る身体が痛ましいドヒだが、その一方でどこか危うい官能性を醸出してもいる。イ所長に向かってテレビのモノマネを披露するシーンではタンクトップの隙間からあられもなく脇が露出するし、K-POPアイドルのダンスに合わせてくねらせる腰つきもどこか思わせぶりだ。彼女の「被虐者」あるいは「幼い子供」という無垢性は徐々に剥落し、それによって我々は彼女を守るべき大義名分を見失っていく。元パートナーとのやり取りについてドヒに口出しされたイ所長が思わず彼女の頬を叩いてしまうシーンがあったが、そのときドヒが浮かべた表情には、苦痛とも恍惚ともとれる妖艶なニュアンスが滲んでいた。さて、こいつは本当にただの「暴力に怯える無垢な少女」といえるのか?
不安定なのはイ所長も同様だ。男性だらけの官憲職において、左遷先とはいえ所長の地位に就いていることから、彼女が相当なエリートであることが窺える。しかしそもそもなぜ彼女は左遷されたのか?夜な夜なスーパーマーケットに赴き大量のチャミスルを買う理由は?ドヒに対して本当に何の性的感情もないと言い張れるのか?日常の節々に表れるこうしたできごとや行動を踏まえると、彼女が「自立した強い女」というステレオタイプから外れた不安定な一個人であることが判明してくる。
当然ながらあらゆる人間には固有の機微がある。男だろうが女だろうが大人だろうが子供だろうが異性愛者だろうが同性愛者だろうが関係ない。そしてそれは時としてグロテスクな形を取ることもある。
そうした機微を避け、社会の一般法則から外れた人々を過度に正しい存在として描くこと、そしてそのフィクショナルな「正しさ」を根拠に彼らを守ろうとすることは、結果的には何も見ていない、何もしていないことと同義だと私は思う。それはどこまでも社会の一般法則の内側に向けてのポーズでしかない。
一方で本作は、社会法則から逸脱した人々を「弱者の無垢性」という社会が構築した神話によって救済するという傲慢さを慎重に避けている。しかも巧妙なことに、序盤のうちはあたかもそういう神話を立ち上げるような素振りをみせる。田んぼの畦道を駆けていく白いワンピース姿のドヒはまるで岩井俊二に出てくる少女のようだし、村内に蟠る旧態依然とした風土を改めようと奔走するイ所長の態度は折り目正しく「ポリコレ」的だ。しかし物語が進むにつれ神話は徐々に解体されていき、最後は個人と個人の深い関わり合いの中でのみ理解されうる超社会的決断へと辿り着く。
とはいえイ所長とドヒの未来は暗雲と驟雨に囲繞されている。二人を乗せた乗用車には絶え間なく雨が打ちつける。それはこの世界における個人と社会の位置関係のアレゴリーであるかのようだ。社会から個人への逃避は一時的には成功するかもしれないが、それはそうと社会はある種の自然法則として世界全体を覆い尽くしている。そこから逃れ出ることは容易ではない。雨風をしのぐ屋根もいつかは朽ち果て、吹き飛ばされる。要するに逃げ続けるしかないのだ。命尽きるまで、永遠に。
アジョシの女の子
少女の居場所
ある漁村に赴任してきた女所長と家族に虐待されている少女のお話。
閉鎖的な村の事件がありながら、うまく主人公:ヨンナムの過去も踏まえて物語を作っているなぁと思う印象だ。
また、今まで虐待されて来た少女:ドヒの言動(愛されたい人に愛されてないと自分を傷つけてしまう行動や、現実の話を伝えたいのに自分の理想をついつい伝えてしまう行動など)も物語に一層面白みを与えていた。
2人の女性の演技が良いだけに、男性1人ぐらいは名演技を見せて頂きたかった所。
ネタバレに近いか分からないが、果たして女所長ヨンナムは同性愛者だったのだろうか?
劇中ではただ単に相手から近寄られ、(性格的にも)そうならざる感があったので、それだけで同性愛者呼ばわりはどうかな?とは思いました。
良い
なんだかイケナイ気持ちになるのが困る…笑
兎にも角にも「ペ・ドゥナ」氏と…
何より思春期に入ったアジア世界最強の子役「キム・セロン」氏の魅力に尽きる一本
。
「人の闇」を語らせたら邦画の数倍、逆立ちしても敵わない韓国映画の。
それでもマイルドな分類なのに、胸に苦い…
何より、ロリコンの属性は皆無な自分なのに。
味わうこの背徳感ったら…
もしかしたら韓国でしか作れない映画かもしれない。
けれどもそこの最前線を走る、そのためのど根性を思わずにはいられない作品。
眼福。
はっきりいって ペ ・ドゥナ とキム・セロンの共演を観ているだけで満足だ。
が、それじゃレビューの意味がないんで少々駄文を綴るとします。
扱っているテーマは虐待と男尊女卑、偏見と低賃金でコキ使われる不法就労者というどれも日本と同様の問題だ。
とてもシリアスな話だがそれを ギリギリ重くなりすぎないものにしたのは、監督の手腕と主演二人の透明感の賜物でしょう。
゛私にも、あの子が怪物に思えたから。
怪物を作ったのは大人達だから。
今救わなければあの子は怪物のままだから ″
最後のヨンナムの決意は感動的だが、果たして立場が同じならあの決断ができるだろうか。
秀作です。
キム・セロンは薄幸な役柄が続いたんで、次はコメディなんか観てみたいねえ。きっとそちらも巧いはず。
主演二人のファンじゃなくても、オススメ。
とてつもない¨私の少女¨
女性監督チョン•ジュリ長編初作品。デビュー作がこのようなとてつもない作品では、これから先どうなるのであろうか。楽しみである。私は、この作品を、韓国映画お決まりの、バイオレンスティックな虐待をテーマに取り上げたものだと解釈し、またそれをコリアンムービーファンのひとり(?)として見に行った。が、しかし、見終わったあと、これはかなわんと思わず一緒に見に行った友人に、声を漏らしてしまうほど丹念に仕上げられたヒューマンドラマでもあり、サスペンスドラマでもあった。ただ、虐待を描いて終わりではない。その時の、その先の少女の謀り知れない、感情の起伏がとても面白い。また、主人公であるペ•ドゥナ扮するイ署長の隠された事実。その二つが絡み合って、壮絶なドラマになっている。それを引き立てるものとして、やはりメインとなるドヒ少女役•キムセロンのえげつない演技力。あっぱれである。ペ•ドゥナにも通じて言えることだが、アップの涙であそこまで説得力あるのは素晴らしい。満足の一言である。
韓国で、このような作品が、プロデューサーの力もありお金をかけ作られていて、韓国の、日本でいう大手シネコン(TOHOetc...)でもって、上映がされていることに関して、日本は見習うべきだ。
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