「生きる可笑しみ、生きる悲哀」バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)
生きる可笑しみ、生きる悲哀
上映が始まって、最初の3分、もう映画に引き込まれた。
キャメラは最初から長廻しを続けている。
5分経った。
「えっ、まだ廻してるよ!?」
10分経った。
「マジで!!」
「これ、どうやって撮ってるの?」
むしろ、この延々と続く長廻しの「妙」もあって、ストーリーそっちのけで、いったいいつまで、この長廻しの限界に挑戦し続けるのか? そちらに注意がいってしまうのである。
20分経ってもまだ続く長廻しに、ようやくこちらも「驚き」から解放され、物語の中に入っていけるようになった。
「こうなりゃ、映画の最後までやっちゃってくれ!!」というのが僕の本音だった。
主人公は、かつて「バードマン」という映画で、スーパーヒーローを演じた舞台俳優マイケル・キートンである。
彼にはこだわりがある。
舞台が好きなのだ。
舞台作品の持つ芸術性、ライブの緊張感、それらを観客に伝えたい。
はっきりいって、映画で着ぐるみを着て、スーパーヒーローを演じたのは、金のため、生活のため、自分の地位を確保するための、まあ、いわば「方便」にしか過ぎない、と自分自身では思っている。
しかし、演劇に情熱を注げば注ぐほど、彼の熱意は空回り。おまけにプロデューサーや、役者仲間たちと衝突を繰り返す。
なにより、彼にとって一番「ムカつく」のは、したり顔で、舞台芸術のレビューを新聞に書く「演劇評論家」たちだ。
あいつらに言わせると、自分はもう過去の栄光にすがっているだけの、落ちぶれた俳優のカテゴリーに入るらしい。
そんな厳しい批評ばかりが彼の耳に入ってくる。
彼はイライラする。
かつて結婚もし、一人娘もいるが、奥さんとは別れてしまった。年頃の娘は、そんな父親をハスに構えてみている。彼女はマリファナなんかを吸ったりして、ちょっとヤサグレている。
マイケルは、もうじき次の舞台公演がある。今はそのリハーサル中だ。
演目はレイモンド・カーバーの「愛について語るときに我々の語る事」
この作品はマイケル自身が脚色、演出し、登場人物を演じている。
この作品の解釈をめぐって、新しくメンバーに入った役者と彼は対立する。
この作品はどう演じるべきなのか? 彼は悩みだす。本当にこれで正解と言えるのか? 自分にもわからなくなってくる。
そんなとき、彼には、ある声が聞こえてくるのだ。それはかつて自分が演じた、もう一人の自分。そう、「バードマン」の声だ。
「ダメなら、またバードマン・スーツを着て、羽ばたいて見せればいいのさ」
「映画の客はアホなアクションが大好きだぞ」
「ミサイルを撃ち落とせ! ヘリコプターをぶちのめせ!」
「お前はバードマンだ! さあ、飛んで見せろ!」
彼はこの、もう一人の自分の声に頭を抱え、悶え苦しむのである……。
本作は冒頭触れたように、長廻しのショットが印象的だ。まさに、上質の演劇を鑑賞しているかのようである。
俳優たちの動きに連動して、キャメラは動くが、決して「手ブレ」をしない。ここら辺りが、監督のうまいところなのだ。
今時の風潮だが、アホな監督は、すぐブレブレの「手持ちカメラ」とか、中途半端なワンシーン・ワンカットの長廻しを使う。なぜ、それを使う必然性があるのか? と観客の一人である僕はいつも疑問に思う。
僕は専門家ではないが、おそらく本作での撮影機材は、ただの「ハンディ・キャメラ」ではなく「ステディカム」を使っているはずだ。
「ステディカム」はキャメラマンの体に固定され、手持ちカメラのように自由自在に動ける。しかし、その安定した機構によって、手ブレが起きないように制御されている。
また、本作でバックに流れている音楽。特にジャズ・ドラムの演奏がいい。スクリーンに映る映像に、絶妙の緊張感とライブ感を与えていて「次は何が起きるんだ?」と観客を映画に引き込ませてしまう。
本作の主人公は、紛れもなく舞台を愛している人だ。
自分が輝ける場所はいったいどこなのか? 自分は何者なのか?
難しい言葉で言えば「アイデンティティ」というやつである。
彼はそれを必死で掴もうとしている。まさに雲をつかむように、彼は必死に自分を探している。その必死さが、第三者である僕たち観客から見れば、「ユーモラス」に、そしてある種「滑稽」にさえ見えてしまうのである。
ところで僕は落語という芸術が好きだ。
かつて桂枝雀師匠は「笑い」とは「緊張と緩和」が生み出すものだ、と言った。また、立川談志師匠は「落語とは人間の”業”の肯定である」と言った。まさに名言だ。
本作「バードマン」には、この二つの名言がピッタリ当てはまるのである。
本作の主人公マイケルは、演劇、舞台という「ナマモノ」そういう緊張感の中で日々を暮らす。そして「緊張」が極限に達すると、それを「緩和」するために、時折、暴走したり、感情を爆発させたりする。
その生き様がなぜか、第三者である僕たち観客には、生きている事自体の「可笑しみ」と「悲哀」を感じさせる。
彼は、どんなにもがこうとも、演劇の呪縛から逃れられない。また、それは自分が望んだことでもある。まさに”業”としか言いようのないものを背負ってしまった人物だ。
どんなジャンルでもそうだが「芸術」に真摯に取り組もうとする人たちは、なにか”業”と言えるものを背負わざるを得ないのである。
その覚悟がなければ、「芸術」をやる資格はないと僕は思う。