劇場公開日 2015年9月26日

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「徹底的沈黙を通じた視覚の復権」草原の実験 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5徹底的沈黙を通じた視覚の復権

2022年10月27日
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本当に衝撃的なカットがいくつかあった。

一つは冒頭の飛行機のシーン。雲海を悠々と曳航しているかと思いきや、実は少女が塀の上に並べた綿が雲のように見えていただけだった。少女の他愛ない遊戯と撮影のトリックが、地上で静止している飛行機をあたかも舞い上がっているかのように見せていたのだ。この視覚に対する古典的な、それゆえむしろ鮮やかな裏切り。無声(この場合はセリフがないこと)という欠損を穴埋めできるだけの映像的魔力がこの映画にはあるんだぞ、ということがここで高らかに宣言されている。

もう一つは少女がサイドミラー越しに少年の姿を発見して微笑むシーン。そこでは言葉と文字の氾濫によって映画という媒体から久しく失われてしまっていた非言語的な幸福性が示現している。

思えば映画というものは、『ラ・シオタ駅への列車の到着』や『月世界旅行』といった黎明期の傑作を見ればわかる通り、視覚的な驚きを出発点として開始された一種の見世物だった。それがいつしか言葉を獲得し、思想を獲得し、やがて文芸へと成熟していった。

そして今や映画は言語なくしては成立しない境位にまで足を踏み込んでいるといっていい。いくら長回しを基調とした寡黙な映画であってもセリフがまったくないというのは極めて稀だ。そうした時代性の中で視覚的な驚き、すなわち「動き」の面白さを「無声」という極端な自己抑制を課してまで復権させようという本作の試みは面白い。

ただ、どれだけ本作が無声映画として傑出していようが、映画史という大局において今更有声映画と無声映画の地位が逆転することはおそらくない。草原の静謐の中で少しずつ丹念に丁寧に積み上げられてきた少女の生活がたった一発の爆弾によって簒奪されるさまには、あるいは昇りかけたかと思えば再び稜線に沈み込んでいく太陽には、さながらそうした諦観が反映されているような気がした。

とはいえ爆弾も太陽も絶望の表象としては少々凡庸な気もする。もう少し示唆の領域に踏み留まってもよかったんじゃないか。例えば爆弾投下の予兆として家のガラスにピシッと亀裂が走るシーンがあったが、あそこで映画を終わらせていたほうがむしろ受け手に手触りのある緊張を与えることができたんじゃないかと思う。

因果