神様なんかくそくらえ : 映画評論・批評
2015年12月22日更新
2015年12月26日より新宿シネマカリテほかにてロードショー
突き放すような幕切れがせつない 嵐の只中にいる少女の記録
主演のアリエル・ホームズはホームレスとしての彼女の生活を書いてくれと監督であるサフディ兄弟に頼まれて、ニューヨークのアップルストアをはしごしてパソコンを使い、「神様なんかくそくらえ」の原案となる小説を書いたという。それは嵐の只中にいる少女の記録だったに違いない。
サフディ兄弟はアリエル=ハーリーのいる嵐になるだけ近づこうとして、路上でハーリーと恋人のイリヤが互いに貪り合う姿に極端なクローズアップで迫る。ハーリーが路上生活者になった背景には様々なことがあるだろうが、彼女をそのどん底に引き留めているのは、この恋人に違いないのである。Addicted loveという言葉が浮かぶようなラブ・シーンだ。イリヤがハーリーをひどい生活に引き摺り下ろす。そして、ここに生きている理由をくれて、居場所になる。ハーリーはイリヤのためなら何でもする。愛を証明しようと手首を切り、どんなひどいことをされても、彼に請われればついていく。イリヤは彼女にとって、ドラッグであり、逃れられないニューヨークの街そのもののような存在だ。
若いホームレスたちの目を通して見えてくるニューヨークは、華やかな都会とはまた別の世界である。セントラル・パークの東側は富裕層が住む地域で、西側は大学や文化施設のある知的な界隈のはずだが、実はどちらも公園に面した通りで目立つのは量販店で、荒んだ雰囲気がある。そのストリートと公園内が彼らの居場所だ。昼は全財産の入った汚れたキャンバス・バックを持ち歩いて定位置で物乞いをし、図書館のような公共施設で暖をとり、情報を仕入れ、ファーストフードで粘り、トイレに居座る。運が良ければサブレット(又貸し)の部屋にありつける。ホームレスたちの行動パターンが見えてくる。ハーリーもここで同じ失敗を繰り返し、パターンにはまり込む。その中心にイリヤがいる。しかし、支配者のような彼も、ハーリーの目が届かないところでは行くあてのない子供に過ぎない。突き放すような幕切れがせつない。
(山崎まどか)