FOUJITAのレビュー・感想・評価
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私は20年以上磔のキリスト様を見てきた。
アッツ島玉砕の絵を見て、ピカソのゲルニカ以上のインパクトを僕は感じた。
そのくらい僕は藤田嗣治画伯を偉大な画家と普段から思っている。
映画の前半部分のユトリロ、モディリアーニ、マネを映画の逸話に入れる必要は無かったと感じた。若しくは前半のパリの逸話は必要無かった様に感じた。もっとも、商業ベースにのせなければ、映画の価値は無いのだから『チャンバラ画』と『アッツ島の玉砕』を言うようにこの映画も『チャンバラ映画』の要素があっても仕方ない。
しかし、なぜ『アッツ島の玉砕』が戦争画になるのか?大日本帝国軍部の感受性の無さに、絶滅危惧種大和民族の必然が垣間見えた。それは戦後の左翼的リベラリストにも同等の感情が湧いてしまう。
『資本主義の成熟』とは絶対に言わなかった『帝国主義の成熟』。
残念ながら
この映画の欠点だ。自由と民主主義の日本国なのだから国に対して忖度してもらいたくない。
猫大好き坂本教授(苦笑)
単に似ているという理由で題名つけるのもどうかと思うのだが、激似なので仕方ない。
年明けの映画鑑賞はさながら美術巡りの様相を呈してくる。サグラダファミリアとこの映画。なんだか崇高な芸術を拝見した様で、頭と気持ちがついていかないような・・・ 単に自分がゲスなだけなんだけど。
藤田嗣治という画家は知ってそんなに年月が経っていない。絵画で知ったと言うより、その数奇な運命、奇怪な行動の数々、そして前述の肖像のアバンギャルドさが妙に頭に残り、その苛烈な印象は、その後鑑賞した裸婦画や、その対局にあるアッツ島玉砕、最後のフランスの礼拝堂の壁画と、まるで波乱万丈菜な人生の物語を紡ぐような編纂である。
その藤田の伝記的映画であるので興味が湧き、観覧することに。
映画自体もまるで絵画の一部のような研ぎ澄まされた緊張感のある静かな情景が続く。音楽を少なめにしかし、効果的に流しているので、より一層の張り詰め方である。オダギリジョーもロイド眼鏡の奥の眼の感じが藤田のそれと似ていて、芝居も良い。
所々、印象的なシーンがあり、パリでのおふざけの舞踏会、アッツ島玉砕の絵の前で観覧者が泣き崩れる様(戦中の戦意高揚の為なのだが、作者自ら、作品の前に立つことがあったのだろうか)、そして、藤田の内太腿の何番目かの妻の裸婦画が描かれた刺青を愛でるシーンなど、芸術的な演出がされていた。
で、総じて全体的に思うことは、綺麗なのだが、藤田そのものの人間像の深淵が覗けなかったこと。これだけの物語性があるのに、本人は飄々としている(エコールドパリでのあだ名がFOUFOUだから、フーフーかw)だからなのか、つかみ所がない感じがそのまま映画にも表現されていて、それがいいのかどうかは正直悩んだ。
本当に有名な絵画を観た印象そのもの。いいんだろうなぁと思い込むような、そんなありがたい話を聞いたような感じが拭いきれない。
特に、最後の壁画を映し出すシーンも、どんな気持ちで観ていればいいのだろうかと悩むのは、作者を勉強していない自分のせいだと自虐的に・・・
戦争画に積極的に加担していた原因で、戦犯扱いされ、全部引っ被り日本を絶ち、フランス帰化、そしてキリスト教の信者になったその辺りのドラマティックな流れがすっぽり抜けているので、現実はそんなものかなぁと一寸寂しさも感じてしまった。
ちなみに藤田の代表技法である「乳白色」のことも、もっと盛り込んで欲しかったと思うが、どこかのシーンで暗喩してるのだろうか?
相当、藤田嗣治を勉強、若しくは絵画に精通精通した人だったら、見応えがあったのかもしれない、人を選ぶ映画なのだろうと思う。
贖罪と共に生きる
画家藤田はパリで大成功をおさめる。
彼にとっては、パリの生活は毎日がパーティーの様に楽しい事ばかりだ。常に刺激に満ち溢れ、画家として題材にも事欠かない。
テクニックにも長け、廻りからも一目置かれている。
ここまでが前半部分のお話。
そして映画は突如戦争中の日本へと飛ぶ。
画家藤田はパリで大成功をおさめた事で、戦争画家として祖国日本で(当時としては)かなりの待遇を受けていた。
パリでの生活とは違い、人々の暮らしは困窮を極めており、パリの時の様な華やかさとは無縁の日々を過ごす毎日だった。
【死】【戦争】【贖罪】は、どうやら映画作家小栗康平にとって切っても切れないテーマになりつつあるのかも知れない…と、今回初めて(一方的に)考えてみた。
『泥の河』には、【戦争】の影が画面の隅々にまでつき纏っているし。加賀まりこが生きるすべは【贖罪】とは切っても切れない関係性を内包していた…とも思える。
サワガニを焼く場面は、監督自身の口から『灰とダイヤモンド』での同胞の魂に祈りを捧げる(死者を敬う)場面のオマージュと公言している。
また一度のみの鑑賞の為に、的を得ているのか疑わしいのですが。『死の棘』は元特攻隊員の話で有り、浮気による不和を、夫婦が乗り越えて行く。【贖罪】的な要素があった。
『眠る男』は(これもはっきりと覚えてはいないのですが)正に【死】に纏わる話に相違ない。
そこで今一度考えてみたい小栗作品が『埋もれ木』だ。
それまでの小栗作品とは一線を化す土着性溢れる作品だが、あの作品で描かれた事が、今作品でのバリでの馬鹿騒ぎに於ける場面に繋がるのか〜…とすら思った。
だからといって、何を描きたいのか?がよく分からなかった『埋もれ木』の評価が個人的にですが、上がる訳ではないのですが…。
本作品で描かれた藤田は、芸術の都パリで大成功をおさめながら、芸術家としての心の底からの満足感を得られていたのか?との思いが観ていて感じられる。
ひょっとしたらテクニックに長けていたからこそ、芸術家として心の底から沸き上がる様な感情は生まれずに、単に「上手く描こう!」との思いだけで、本当の自分は偽っていたのではないのか?との描かれ方の様に見える。
この見方は、あくまでも私個人の作品を観た上での感じ方ですが。映画後半での日本パートでは、藤田は心のどこかに'引け目の様なモノ'を抱え込んでいるかの様に伺えた。
芸術家として、国家に魂を売り渡してしまった事の負い目。則ち【贖罪】にこそ見えるのだ!
しかしながら、芸術家として描ける事の'縛り'が、逆に彼にとっては本質を見抜く:描く眼を取り戻させた…とは言えないだろうか。
なにゆえ小栗作品だけに、単純に万人が理解出来る様な作りでは無いので、あくまでも個人的な推測になってしまうのだが…。
抑制された画面・美術構成は『死の棘』:『眠る男』を更に極め、静謐なロケ風景は藤田本人の(芸術家としての)心のざわめきにすら受け取れる。
(2015年11月30日/ユーロスペース/シアター2)
画家志望者(美術関係者)向き、難解な作品。
小栗監督ですので、商業的な作品でないことを覚悟で観るべき作品。二流映画評論家が、どう批評するかを待ちたい。藤田嗣治(以降、フーフーとする。)という画家のフランスでの生活、戦中における日本で暮らしを描いた作品。フーフーの生活を中心に描かれているが、フーフーの周りの社会動向などが全く無視。フランスなら、ドイツ侵攻や戦争の匂いも全く無視。ほぼ、夜な夜なパーティー三昧の日々を描いているため、何となく映画に幅がなく飽きること必至。日本に戻ってからの生活、ここでは、もろ戦時中。フランスと日本、時の描き方も無視。「アッツ島玉砕」の絵画には驚嘆させられる。が、いつ描いたの?それもよく判らない。キャスティングがやたら豪華でエンドロールでやっと気づくくらい。
加瀬さんの出演の意味もよく判らない。「はじまりのみち」や「海街」の彼の演技には良かったが、今回の作品においては?????。
とにかく難解な作品。デートで観る作品では全くない。「泥の河」に感銘を受けたが、今回は、昔フーフーっていう人が存在したのが判ったくらい。強烈な印象を与えない作品でした。
みんなゆっくりしゃべる
学校の先生がオダギリジョーが頑張ってフランス語喋るよって言うので見に行きました。
しかし残念ながら主人公はぱっつんおかっぱの丸メガネでオダギリジョー感は全くありませんでした。別に彼が好きなわけではないですが期待するところが違ったなとすぐにわかりました。
映画館では学生はひとりもいませんでした。やっぱり若者には難しいようですね。
もっと戦争加担者によって追われ、またフランスに戻る彼の人生の最後まで描いて欲しかったです。
そんなことを言うとこの監督者さんがわかってないと言われそうなのでこの辺にして、パリの背景はとても綺麗でした。
徹底した説明不足ぶりに、きっと欲求不満になることでしょう。
とにかく、まるで絵画の様な美しい映像に息を飲み込みました。一つ一つのショットが、キャンバスに描かれた絵のように見えるのです。
そして長い静寂。背景と会話のみのショット。効果音もBGMも排除され、静まりかえった劇場には、近くの観客イビキの音がこだましていました。気持ちよく眠れそうな作品なのです(^^ゞ
けれども、効果音の途切れたシーンほど、意味なく息が詰まってきそうです。こんなエンターティメントとは対極の作品に遭遇したのは、初めての経験でした。
本作は、「泥の河」「死の棘」の小栗康平監督が、2005年の「埋もれ木」以来10年ぶりに発表した映画で、日仏合作。主人公は、画家の藤田嗣治(オダギリジョー)です。
1920年代のパリと1940年代の帰国してきてからの日本。フジタの二つの時代をちょうど半分ずつに分けて、対比する様に描きだしました。その間に描かれた作品の違い、心情の変化が本作の大きなテーマになっています。しかし注意すべき点は、本作は決して、伝記映画ではないということ。小栗監督は、フジタを物語の中に閉じこめないのです。
パリでは、日本的な線描と透明化のある独特な乳白色の肌の裸婦像で成功を収めていました。しかし帰国後、戦時中の日本では、ヨーロッパの歴史画を思わせるリアルで残酷な戦争画を描いたフジタ。その間の心境の変化を普通の映画作品では、軸に置いて克明に描きだすところでしょう。けれども本作では、それを全く無視!わかりやすい物語でつながず、感じさせることを観客に強いてくるのです。フジタは、いつ、どんな場所に存在していたのか。何を聞いていたのか。何を見ていたのかということを解説するのでなく、断片的な映像だけで。まさに脈絡のないメタファーが連続する作品でした。
二つの時代はぶった切るように突然変わるので、フランスで愛を育んだ3人の夫人たちや愛人のモデルたちとの交情がどのように終わったのかということと、終戦後に日本を追われるようにパリに行った晩年の心情が描かれていないことが不満です。
作品は、屋根の上を歩く猫のいる遠景から始まります。そして、既にエコール・ド・パリの寵児として成功していたころの、キャンバスに向かうフジタの姿が映し出されるのです。前半はそのパリ、後半は帰国後の日本。主に君代夫人(中谷美紀)と共に疎開していた農村での日々が描かれます。けれども両者に繋がりがなく、まったく違う作品に見えてしまいました。
小栗監督は、時代、文明の相克の中で生きることを余儀なくされた人間としてフジタをとらえたそうです。パリでの華やかな日常と表裏一体の孤独。戦時の日本の息苦しさ。違う時代、違う場所で生きていても、フジタは常に光と闇が同居する世界に身を置いていました。
そこにどんな葛藤が隠されているのか。安易な言葉では語ろうとしません。なぜ、フジタは戦争画を描いたのか。作品解説や評伝に書いてあるようなことを、この映画はなぞろうとはしないのです。なんと不親切な作品でしょう。よって観客は、目を凝らし、耳を澄ませ、監督が、映画そのものに語らせようとしたものを、必至で感じることを求められてしまうのです。
いつものエンターテイメントに慣れた観客は、この説明不足ぶりに、きっと欲求不満になることでしょう。展開も遅いし、あまりに抽象的。けれども、目に焼き付くもの、心にひっかかる何かを感じて、覚悟していたほど、眠れませんでした(^^ゞ
端正だが、様々なものが混在している映像。本人そっくりのオダギリが演じるフジタも見ていて飽きることがありません。猫のようにしなやかで、単純なようで複雑、複雑なようで単純。そのつかみどころのなさがいいのかもしれません。キツネのような君代といる景色もなかなかいいのです。但しフジタが散歩中、脈絡もなく登場するCGで描かれた幻想的なキツネがひょっこり出てくるのは、余計だと思います。あれは、内山節の「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」にインスパイアされたそうなのです、そういえばいつからか日本人はキツネに騙されなくなりました。
あれは監督が描く「絵空事」たる本作に、素直に騙されてほしいという願いが込められているので存在ではないでしょうか。
「いい画は、いつかは物語を超えて生き延びる。」劇中、フジタがそんなことを言う場面がありました。彼が肯定する「絵空事」の力が、映画そのものと反響し合っているかのような作品だといえそうです。あなたもポカンと騙されてみますか?
断片の連続です。ちょっとなぁ、どうなんだろ?
日本生まれの画家・彫刻家、藤田嗣治(フランス名:レオナール・フジタ)の生涯を描いた作品。
正直・・・、微妙?明示的にはなっていませんが、暗示的には藤田嗣治のパリでの生活編と、日本での生活編と言う構成です。でもねぇ、いきなり何の前触れもなく、パリから日本に来ていたし、そもそも、パリでの生活においても、前後のシーンの関係性や、登場人物への関係性が全く語られていません。日本編で、その一部は明らかにされますが・・・。私はたまたま、見に行く前に藤田嗣治の事をWikipediaで検索して勉強していたので、何となくは、登場人物がわかりましたが、事前の知識がなければ、チンプンカンプンでは無いかと思います。
もっと脚本を練ってくれていて、もっと前後関係がきちんと描かれていれば、もっと内容が分かりやすかったと思うんですが、シーン・シーンの断片が、羅列的に出てきてはなんとも・・・。「いま何をやっているの?」とかが全くわかりません。シーン自体は、けっこう良い画が取れていると思うんですが、そのシーンの意味がわからない。それと、その後の話とは無関係な画とかでてきてもねぇ。「その後の伏線?」と思っても違うみたいだし。
そういう意味では、日本編になって、中谷美紀が出てきて、やっとシーンの前後関係が判るようになって、少しは物語らしくなったと思ったら、最後は何???イキナリのファンタジー???
う~ん、なんと言うか、評価に困る作品です。一つ言えることは、脚本をもっと作りこんだほうが良かったんじゃないかな。
折角の映像美なのに、ストーリー展開が非常に中途半端で、どこまでもあ...
折角の映像美なのに、ストーリー展開が非常に中途半端で、どこまでもあやふやなまま終わる。結果としてその美しさは全て定点であることが裏目に出て、なんだかもったりとした印象。
処世術として道化を演じ、実に実直に絵を描いた、平々凡々な人物、そして大きな流れの渦中の1人だったのだという主張はわかる。が、その終盤の表現がびっくりするほど雑。狐のCGいるか?窓辺に立つフジタのアングルいるか?言わんとしていることはわかっても、多くが抽象的で陳腐に感じてしまった。残念。
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