「「フーフー」と、キツネの贖罪」FOUJITA ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)
「フーフー」と、キツネの贖罪
小栗康平監督がレオナール・フジタの映画を完成させた、と聴いて、ちょっと胸騒ぎがした。
「早く観にいきたい」という気持ちと、「もしかして……」という一抹の不安、相反する気持があったのだ。
僕は小栗康平監督の「埋もれ木」という作品を、名古屋のミニシアターで鑑賞した。2005年のことだったと思う。
そのあまりの抽象性に「さっぱり訳がわからん」とひどく落胆した、嫌な思い出があったのだ。
レオナール・フジタ(藤田嗣治)は映画の題材として、あまりに魅力的だ。
しかもフジタを演じるのは、オダギリジョーだという。
いやはや、この作品は魅力的すぎる!!
こんな美味しいニンジンをぶら下げられたら、もう映画好き、美術好きとしては劇場に向かって走る以外ないだろう。
しかしである。
もし、ここで、小栗監督お得意の抽象性で描かれたら、もう本作は、それこそ太平洋戦争末期の日本軍さながらに、映画興行として「玉砕」してしまうのだ。
そんな不安を抱えながら僕は劇場にいそいそと向かった。
上映が始まると、僕の不安は安堵に変わった。
小栗監督は所々でやはり、抽象性を挟みつつも、実に丁寧に抑制された演出で、淡々と藤田嗣治と女たち、そして彼が生きた時代を描いて見せるのである。
映画前半、エコール・ド・パリでの「フジタ」
彼の描く乳白色の裸婦像は、パリっ子たちにとって「東洋の神秘」
「誰も真似できない」として絶賛されまくる。
夜の街に繰り出せば、誰もが彼を「フーフー」という愛称で呼ぶ(ちなみに、これは「お調子者」という意味らしい)
彼はパリのアーティストたちの、まさに中心人物として担ぎ上げられる。
束の間の平和、日ごと、夜ごとの乱痴気騒ぎ。
「フジタ」はパリで最も有名な日本人として、時代の「波」に乗った。
芸術家たちにとって、なんと幸せな時期であっただろう。
しかし、すぐ暗黒の時代がやってくる。
映画の後半は、まさに作品をバッサリと真っ二つに切ったかのようだ。
舞台は戦時下の大日本帝国。
そこにはもう乱痴気騒ぎはない。
あるのは疎開先での質素な田舎暮らし。
そして軍から集落に強要される、定期的な「金属の供出」である。
フジタはフランス帰りの洋画の大家として、日本軍に迎えられる。
戦意高揚のため、戦争絵画を描くように軍から要請されるのだ。
彼は軍から請われるまま、アッツ島玉砕の大作を描く。
フジタは、その玉砕を美化した、日本軍の協力者として、戦後に激しいバッシングを受けることになる。彼は故郷ニッポンの地を二度と踏むことなく、スイスのアトリエでその一生を終える……
本作は彼の戦後については、あえて描いてはいない。
疎開先でのフジタは、ある日、知人からキツネに「化けかされる」話を聞いた。
「そんな迷信を……」とフジタは笑う。
しかし、残酷な戦争は、フジタ自身をキツネにしてしまったのかもしれない。
彼は日本軍から「少将待遇」という、とんでもない高い位を与えられる。
その象徴として、将軍が羽織る、マントをもらっていたのだ。
そのマントを羽織って、下駄を履いて、田舎の里山を散策するフジタ。
これがエコール・ド・パリで一斉を風靡した、同じ人間なのか……
化かされたのは誰か? 化かしたのはだれか?
滑稽なまでのマント姿のフジタ。
それを淡々と演じるオダギリジョー。
時代に弄ばれたフジタの姿はあまりに痛々しい。
なお、本作では描かれていないが、フジタは生涯の終わりに、教会の壁画を手がける。自身手がけたことのないフレスコ画への挑戦だった。
フランスに帰化し、カトリックの洗礼を受けたレオナール・フジタ。
自分が犯した罪と罰。
それをどう裁くのかは「神様」が決めてくれるだろう。
絵描きは絵描きとしての責任を全うすべきなのだ、という、フジタなりの決着のつけ方ではなかったか?
本作のエンドロールで映される、その小さな教会を眺めながら、僕はそんなふうに思った。