「徹底した説明不足ぶりに、きっと欲求不満になることでしょう。」FOUJITA 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
徹底した説明不足ぶりに、きっと欲求不満になることでしょう。
とにかく、まるで絵画の様な美しい映像に息を飲み込みました。一つ一つのショットが、キャンバスに描かれた絵のように見えるのです。
そして長い静寂。背景と会話のみのショット。効果音もBGMも排除され、静まりかえった劇場には、近くの観客イビキの音がこだましていました。気持ちよく眠れそうな作品なのです(^^ゞ
けれども、効果音の途切れたシーンほど、意味なく息が詰まってきそうです。こんなエンターティメントとは対極の作品に遭遇したのは、初めての経験でした。
本作は、「泥の河」「死の棘」の小栗康平監督が、2005年の「埋もれ木」以来10年ぶりに発表した映画で、日仏合作。主人公は、画家の藤田嗣治(オダギリジョー)です。
1920年代のパリと1940年代の帰国してきてからの日本。フジタの二つの時代をちょうど半分ずつに分けて、対比する様に描きだしました。その間に描かれた作品の違い、心情の変化が本作の大きなテーマになっています。しかし注意すべき点は、本作は決して、伝記映画ではないということ。小栗監督は、フジタを物語の中に閉じこめないのです。
パリでは、日本的な線描と透明化のある独特な乳白色の肌の裸婦像で成功を収めていました。しかし帰国後、戦時中の日本では、ヨーロッパの歴史画を思わせるリアルで残酷な戦争画を描いたフジタ。その間の心境の変化を普通の映画作品では、軸に置いて克明に描きだすところでしょう。けれども本作では、それを全く無視!わかりやすい物語でつながず、感じさせることを観客に強いてくるのです。フジタは、いつ、どんな場所に存在していたのか。何を聞いていたのか。何を見ていたのかということを解説するのでなく、断片的な映像だけで。まさに脈絡のないメタファーが連続する作品でした。
二つの時代はぶった切るように突然変わるので、フランスで愛を育んだ3人の夫人たちや愛人のモデルたちとの交情がどのように終わったのかということと、終戦後に日本を追われるようにパリに行った晩年の心情が描かれていないことが不満です。
作品は、屋根の上を歩く猫のいる遠景から始まります。そして、既にエコール・ド・パリの寵児として成功していたころの、キャンバスに向かうフジタの姿が映し出されるのです。前半はそのパリ、後半は帰国後の日本。主に君代夫人(中谷美紀)と共に疎開していた農村での日々が描かれます。けれども両者に繋がりがなく、まったく違う作品に見えてしまいました。
小栗監督は、時代、文明の相克の中で生きることを余儀なくされた人間としてフジタをとらえたそうです。パリでの華やかな日常と表裏一体の孤独。戦時の日本の息苦しさ。違う時代、違う場所で生きていても、フジタは常に光と闇が同居する世界に身を置いていました。
そこにどんな葛藤が隠されているのか。安易な言葉では語ろうとしません。なぜ、フジタは戦争画を描いたのか。作品解説や評伝に書いてあるようなことを、この映画はなぞろうとはしないのです。なんと不親切な作品でしょう。よって観客は、目を凝らし、耳を澄ませ、監督が、映画そのものに語らせようとしたものを、必至で感じることを求められてしまうのです。
いつものエンターテイメントに慣れた観客は、この説明不足ぶりに、きっと欲求不満になることでしょう。展開も遅いし、あまりに抽象的。けれども、目に焼き付くもの、心にひっかかる何かを感じて、覚悟していたほど、眠れませんでした(^^ゞ
端正だが、様々なものが混在している映像。本人そっくりのオダギリが演じるフジタも見ていて飽きることがありません。猫のようにしなやかで、単純なようで複雑、複雑なようで単純。そのつかみどころのなさがいいのかもしれません。キツネのような君代といる景色もなかなかいいのです。但しフジタが散歩中、脈絡もなく登場するCGで描かれた幻想的なキツネがひょっこり出てくるのは、余計だと思います。あれは、内山節の「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」にインスパイアされたそうなのです、そういえばいつからか日本人はキツネに騙されなくなりました。
あれは監督が描く「絵空事」たる本作に、素直に騙されてほしいという願いが込められているので存在ではないでしょうか。
「いい画は、いつかは物語を超えて生き延びる。」劇中、フジタがそんなことを言う場面がありました。彼が肯定する「絵空事」の力が、映画そのものと反響し合っているかのような作品だといえそうです。あなたもポカンと騙されてみますか?