「移民問題への踏み込みが浅い」サンバ DOGLOVER AKIKOさんの映画レビュー(感想・評価)
移民問題への踏み込みが浅い
ストーリー
セネガルから不法移民としてパリに渡って来たサンバは、シェフを目指してレストランで10年もの間皿洗いをしてきた。パリで叔父と暮らしている。しかし、ある日不法移民狩りにあって出入国管理局に拘束され移民審査所に送られる。そこで移民審査を待つ間、弁護士のアリスに出会う。アリスは大きなファームで責任の重い仕事を請け負い、一日12時間も仕事を任されて完全に燃え尽き症候群状態となって、休職中だった。ボランテイアで移民審査事務所の仕事を手伝っていたのは、友達がやっているから、という単純な理由だった。しかしアリスはサンバの率直な姿に惹かれて、サンバの弁護について、難民として合法的にフランスに滞在できるよう手を尽くす。しかし審査はうまくいかない。結果は滞在許可が下りず、彼はセネガルに即刻帰国しなければならないと命令される。
サンバは再び警察や入管の目を盗んで、見つからないように隠れて仕事を続けるしか生きる道はない。一方、アリスはサンバを助けることが、仕事への自信を失い生きる希望をなくしていた自分自身の再生につながっていることに気がつく。やがて、アリスはサンバへの恋心をバネにして、職場復帰する決意をする。というお話。
もう若くない女性弁護士が、生きる力に満ちた若い不法移民の青年の心惹かれ、閉ざしていた心を徐々に開き、人間らしさを取り戻していくプロセスを描いた映画だ。オマール シーの躍動感いっぱいの若々しく美しい肢体、包容力に満ち溢れた物腰、目の前に座られたら今まで自分が犯してきた罪を何もかもスラスラを話してしまいたくなるような深い瞳、、、この人は、いまフランスで一番輝いている役者ではないだろうか。
一方、終始やぼったい男物の古着みたいな服ばかり身に着けて、知的だが全然冴えない女性弁護士を、シャルロット ゲインズブールが好演している。この人、父親(セルジュ ゲインズブール)にも、母親(ジェーン パーキン)にも似ていなくて、とても地味な人だ。繊細で知性的だが、明るくない。彼女が、お陽様の様に明るいオマール シーに出合い、彼の裸を偶然目にして、思わずごくりと唾を飲み込むシーンは笑えるけど、とてもよくわかる。
シャルロット ゲインズブールは、60年70年代のフランスポップミュージックを代表する歌手セルジュ ゲインズブールと、イギリス人女優ジェーン パーキンとの間に生まれた娘だ。セルジュは女殺し、当時のセックスシンボルで、ジュリエット グレコ、フランスギャル、ブリジット バルドーなど美女を軒並み愛人にして、この世を駆け抜けて去って行った。このプレイボーイの短い生涯で、唯一妻の座についたジェーン パーキンは、ストレートの長髪に、でかいバッグを持って、ショッキングなショートショートスカートで走り回る元気な姿が当時のファッションの先端を走っていた。カルチェ ラタン、パリの道路封鎖、ベトナム反戦といった当時の気風と、若者の反骨姿勢を彼女ほど、ストレートに行動やファッションで見せてくれた女優は他にいない。娘のシャルロット ゲインズブールはその両親のどちらにも似ていないが、独特の存在感のある女優だ。
監督の二人は、彼らの初めての作品「最強のふたり」で、デビューした。このとき主役に抜擢したオマール シーを余程気に入ったらしく、今回の映画は彼のために作られた映画のように思える。「最強のふたり」で彼は、半身麻痺の車椅子の人をケアする青年役を演じた。素晴らしいヒューマンストーリーで、実話なので、原作も脚本もしっかりしていて、完成度の高い映画だった。この映画の中で、車いすの男を浜辺にある美しいレストランに連れていき、会いたいが会う勇気がなかった女性を呼び寄せて、自分はアバヨと姿を消す気の利いた青年は、今回の映画では疲れた女性弁護士の肩を揉む。実に自然体で役を演じている。気の利いたフランス映画の小作品。
それにしても、アフリカからの移民で対策に汲々としているフランスの現状をよく映し出している。毎日100人単位で戦火を逃れてイタリアに流れ着く人々、命の危険を重々承知の上ボートで漂流する人々、別天地を求めてメキシコ国境を渡ってアメリカまで走破する人々、インドネシアからオーストラリアに向かって意図的に転覆寸前のボートで渡ってくる中東からの移民、、、世界中が移民で溢れかえっている。100人移民がいれば、100とうりの悲しい残酷な話を聞くことができる。
オーストラリアは、ベトナム戦争によって戦火から逃れて来たベトナム人ボートピープルを救助するまで白豪主義により、アジアからの移民を拒否して成り立ってきた。シドニーから車で3時間、ヤングの町は、いまはブドウやサクランボなどの耕作地で豊かな自然に恵まれた地域だが、1860年代には金が採掘された。14600キロの金が取れたという。にわかにゴールドラッシュがおきて、各地から金の採掘夫が集まって来た。時に中国からも数千人の採掘夫が流れ込み、彼らは安い賃金で働き、地元の採掘夫の仕事を奪ってしまった。そこで1861年から数か月にわたって武装した3000人の鉱夫が中国人を金を掘るナタやシャベルで殺しまくった歴史がある。クリスチャンで殺戮に反対していた夫婦が1276人の中国人を数か月間かくまって命を守ったという記録があるから、実際殺された中国人の被害者数は、大変な数だろう。
世界史は移民の歴史でもある。すべての国で移民が認められれば、国境は意味を持たなくなる。
国というものは難民、移民を持たないことを、前提に作られている。人は国境という囲いの中で、生きて税金を納め、税金は国民の経済活動を支え、教育、福祉、外交、医療などを保障する。越境は違法行為だ。しかし、それでも人々は国境を超える。国にとっての移民をどう捉えるか、という極めて政治的で今日的な課題を、この映画は扱っているが踏み込みが浅い。違法移民を認めるのか、認めないのか。国境を越えて生きるのか、移民を認めず排除して国境は守るものとして考えるのか。本当は二つの一つだ。中間はない。移民を受け入れるからには、自分の持っているものを分け与えなければならない。仕事を失うかもしれないし、税金の負担が大きくなるかもしれない。それでも移民という手段を取らなければならなかった人々、、、戦火を逃れ、暴力から逃げ、貧しさから救いを求めてやってきた人々を受けいるかどうかは、その人それぞれのヒューマニテイーに関わってくる。
この映画では移民の取り扱い方に、確固たる思想がないので、単なる年増女の小さな恋を描いた小さな作品になってしまっている。残念だ。