「一瞬を大切に生きる、サルトルの実存主義と、自分の記憶」忘れないと誓ったぼくがいた ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
一瞬を大切に生きる、サルトルの実存主義と、自分の記憶
僕はこの原作が好きで、この作品も、僕にとっては珠玉の一作だ。
あずさは、どんな気持ちで、タカシの机の前のあずさの写真や、忘れないと誓った書き込みを剥がしたのだろうか。
どんな気持ちで、あずさとしての伝言をタカシに伝えたのだろうか。
恋人が別れ、お互いに一歩、未来に向かって別々の道を歩きましょうというようなメッセージのようだとも感じる。
胸が張り裂けそうにもなる。
僕達の世界では、覚えていることや、覚えてもらっていることより、忘れてしまうことや、忘れられることの方が、きっと多いに違いない。
現代人の一日に触れる情報量は、江戸時代の人の一年分、平安時代の人の一生分に相当するらしいので、無理もないようにも感じる。
敢えて、忘れてもらったほうが良いと思うようなこともあるかもしれない。
忘れてしまうことも悔しかったりするが、忘れられることは、やはり辛い。
ただ、介護施設で言われる「記憶がなくなっても二人で過ごした時間だけは奪えない」という言葉は重い。
一緒に人生の大半を過ごしたパートナーが、たとえ認知症であろうと、自分のことを忘れてしまったら、その辛さは計り知れないだろう。
日々、何気なく通り過ぎる場所も、改めて見つめ直してみたら、こんな良い場所があったのかと感じるかもしれない。
見回してみたら、そんな場所はたくさんあるのではないのか。
クラスの皆を考えてみても、親しい人も疎遠な人も色々いて、記憶にとどまる程度は異なる。
そして、進級のクラス替えとか、進学とか、卒業とか、転勤とか、転職とか、退職とか、いろんな節目で人はいろんなことを忘れる。
これだけは、この人だけは、覚えておこうと思っても、忘れてしまうことも少なくはない。
ただ、この作品は、思い出とか記憶とか、そういうこととは関係なく、今を、一瞬を、大切に生きようと問いかけているように感じるのだ。
そう、一瞬一瞬の積み重ねの時間をだ。
写真や動画は思い出の大切なツールだ。
しかし、それに過度に依存しないで、毎日を大切に生きてますか、と逆説的に問うているようも感じるのだ。
そして、サルトルの実存主義を考えてしまう。
最近の、三島由紀夫と東大全共闘との議論のドキュメンタリーでも両者から取り上げられるサルトルだ。
サルトルは、大戦後のヨーロッパにあって、それまでの価値観を支えてきた近代思想が崩壊し、拠り所を失った人々の不安に、人はどうやって生きていったら良いのか、実存主義という新たな思想で向き合おうとした。
実存主義は、「人間の本質はあらかじめ決められたものではなく、実存、つまり、現実に存在することが先行している。だから、人は自ら世界を意味づけ、行為を選び取り、自分自身で意味を生み出していかなければならない」としたものだ。
サルトルは、世界や存在に意味などはなく、人は根源的に自由だとした。
しかし、自由は不安でもあるとした。
同時に人は、他者との関わりなしに生きてはいけないし、他者と相克しながらも共生することが、たとえ不自由や地獄だと感じたとしても、これに主体的に関わっていくことは可能で、社会に積極的に参加し、自由を自ら拘束することが、自由を最も生かす方法だと主張し、厳しい状況にあっても希望を失わない生き方を説いているのだ。
そして、実存主義は、ここまでが一括りだ。
この作品は、荒唐無稽なSFファンタジー小説の映画化なのかもしれない。
僕は、この原作が好きだが、多分、映画はあまりヒットしなかったように思う。
でも、実存主義の観点から考えても、ストーリーは、やはり興味深い。
自身の存在が、次々に人々の記憶から消えてしまう。
こうした状況で、人は自由であっても、他者や社会との関わりなしには、孤独であることはもちろん、実は、自分の存在自体に意味を見出すことは、難しいのではないのかと考えてしまうのだ。
考えすぎなのは分かっている。
繰り返しになるが、作品自体は、忘れられるということをモチーフにしながら、一瞬一瞬を心に刻んで、大切に生きるようにという若者、いや、人々に向けたメッセージなのだと思う。
僕達は、日々、新たな、そして、膨大な情報に接し、古い情報を記憶から消し去っていく。
ただ、流れるに任せ過ぎてはいないか。
感情に任せて、歪んだ記憶になってはいないか。
僕は普段から、僕達は自分の経験や記憶、知識などから逃れられないと思っている。
だから、映画のレビューを書く時も、自分の経験や記憶の引き出しを出来るだけ、そして慎重に開けるようにしている。
自分の曖昧な客観性を信用してはいけないと考えていることもあるが、その方が、映画の記憶をより印象的にするからだ。
そんなことを色々考えたこともあり、やはり、この作品が大好きだ。