「合意なきキスがレイプとされず感謝される」ストロボ・エッジ Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
合意なきキスがレイプとされず感謝される
『ストロボエッジ』(2015)
<恋愛ゲームに慣れてしまう危険性、キスがレイプにならない>
少女漫画が原作らしい。『ひよっこ』より2年前の有村架純。役者たちは高校生より年上の人達が高校生を演じているが、モテ男子が年上の女性と交際していたが、同級生がその男子を憧れているうちに、その男子が年上女と疎遠になっていって、同級生が両想いになっていくという、相手が変わっても交際は途切れないモテ男子の話らしい。関心しないようなモチーフだが、そういう人たちもいるのだろう。そして振られていく脇役たち。結婚していてそういうことをしたら不倫だが、高校生の交際で交際相手が変わるということは、何をしめしたい話だったのか。結婚していなくても、
交際しているということなら、高校生でも交際している人に対しては略奪を控えるという、そうした先手権が条文化されずに行われている。結婚もしていなくてもそうした感覚が出来る人達がいる一方で、大人になっても、結婚して独占を企てながらも、別のとも性行為してしまう、卑怯者が沢山いる。卑怯者というよりも、不倫などしてしまう人達は依存的な性病者なのだろう。石川ひとみが歌った『まちぶせ』などは怖いが、別に交際相手がいる人に執着しなくても別の人がいるだろうと
いう面でみれば執着的変態のような気もするが、この映画では、交際相手と事情でうまくいかなくなっていたような時に、偶然別の者が介抱してあげるみたいな出来事があったりする。そんなに努力して交際になっても、それも別れてしまったり、離婚してしまったりと、その間に別の人達は、略奪しようともせずいたのに。そのように交際相手と別れてしまうことは身勝手な事である。きっと強欲な人達なのだろう。また何人も断って振るくせに、誰かは狙っていたりする。なんとも汚いものである。そんな汚い可能性があるところを誠実に乗り切って、子供を育てていく人達になっていくのだろう。主人公は交際相手がいる人物に好意を持ってしまうところで悩む。正義感の強い人ほど
悩んでしまう脳の嗜好性である。中毒症状である。それに立ち向かう人は、薬物に溺れることもないだろう。この映画では別れる相手と海辺で女のほうが男の背中に顔をつけて後ろから抱えたり、手を握っていたりする描写があるが、どこまでスキンシップしていいのかという規則が日本社会には既にない。だから中絶にまでなってしまう人達が年間20万組も続いているらしい。中学生の時に、好きな男に近づくために、その友人だった男に接近した女に裏切られてから、軽い女遊びしかしなくなった脇役が出てくる。その脇役が主人公を好きになり、主人公が好きになってしまい悩んでいる男に仁義を切ってくる。この恋愛という不安定なシステムまがいは大変である。不安定な仕組みだからどうなるかドラマとして弄ばれる。好き者のシステムまがいが恋愛ゲームなのである。
馬鹿も現れるわけである。「私、好きって気持ちを軽く考えていた。もっと覚悟が必要だったんだ」
そんな恋愛のゲーム性の中で、正義を持ち続けようとする主人公。批判的に観ているうちに、片思いや相思相愛や、そのメカニズムや、なぜ断層があるのかなど、一体どうしてこのような現象が生じるのかという根源的な難解に向かう。誰もが相思相愛になれるならストーカー行為などは言われないはずでもある。どこからが略奪なのかとか、恋愛を終わらせてしまうメカニズム。乗り移って嫌がらせに転じる汚さなど、メカニズム解明には至らないだろうが、なぜ生じるのかという疑問をわき起こすかとは思う。この場合は、男が彼女に別れを告げられ、その彼女がモデルの仕事の比重が大きくなったと言いながら、それもあるにせよ、主人公の存在に気付いたのか、女のほうから別れてきて、男がフリーになったと言われて、主人公が偶然転んだのを男がみて、話をしているうちに、新たな交際相手になるというケースのようだが、こうした面倒くさい規則があるために、誠実さが試される。それがなければ略奪と不倫と乱交ときんしんそうかんと獣かんまで進んでしまうのだ。
そしてこういう話は成就する二人の他に成就しない三角関係の脇役がいたりする。だが、付き合っていた癖に別れたらやり逃げのケースもあるのだろうし、結婚なら不倫で当然悪いが、結婚してなくても良いとは言えないだろう。恋愛感情を素直にするなら交際中に性行為はすべきではないだろう。生まれたはずの子供は永遠に消失し、性病だけが残る。この話は主人公のおこぼれの都合に合わせているが、恋愛というゲーム性のあるメカニズムに対して考えさせる。しかし、男が高校生の途中で群がる女が3人も変化している者がいるという(笑)。恋愛関係になったと思ったら、変な女が邪魔なのか忠告なのか、まだ現れてきたりと、まだまだ不思議を追い求める。こうしたゲーム性を終わらせるためには、結婚という覚悟の決まりがどうしても必要であろう。この映画をみても、恋愛という凝固な洗脳されたシステムを美化してみせてしまうところに疑問を呈することは必要なため、こうした文章は必要だ。そうでないと映画だけあれば済むことだ。ただ、脇役たちが、成就しない片思い状態を、別の脇役と脇役とで成就させることにより問題を解決するというのに近い話を織り込ませてある。しかも女のほうが誰でも好きになってしまうのかというような不可解な話である。
なんだかわからないのである。「あのあと気持ちに気づいたの」。なんだそれは。恋愛はかなり野蛮な原始的な脳みそに左右される。どうでもいいなら乱交になる。そうならないように片思いの葛藤が用意されているとも言えるのか。けっこう脇役のパフォーマンスはかっこ良かったりする。そして後日、別の話で脇役たちも誰かと一緒になれたりしている。主人公同士は好きあっている癖に
なぜか片方が拒絶してしまったり、わけがわからない。しかし親友でありながらライバルである男と、
交際する相手は一人であるという決まりによって、人間性が試される。一人だと決まってないなら、乱交になり、誰にも拒絶される人物の物語となるだろう。キスが欧米のように軽くしてしまう話が挿入されていて、ライバルの男がキスを主人公にして(今までは書かなくても女だったが、現在はそう限らない)、主人公がライバルをぶつかと思いきや、「わざと嫌われるようにキスしたんでしょ」と言って、レイプ被害にもならない。主人公のほうがキスをしたライバルに謝って、「ごめんね。私は蓮君が好きだから」という。さらに具合が悪いのは、そのライバルは主人公の額にキスをして、「いきな。走ればきっと蓮君に追いつく」といって、主人公が走り去ると、ライバルは涙する。決してキスがレイプにされない。欧米では挨拶がわりだろう。許容すればレイプにならないが、欧米はレイプを厳格化してきたところである。今後はキスからペッティングがそうなり、さらに挿入がレイプにされなくなるだろう。となりそうなところで欧米のほうから瀬戸際で戻せるか。日本は遅れる。全て欧米の真似だから。ここにこの映画が乱交を正統化させようとしてしまう危険性があった。2015年の映画だった。一方でエキストラの高校生たちがシャボン玉を吹いている。極めて幼児的な現在を表現している内容だった。