野火のレビュー・感想・評価
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戦争反対‼️
戦争末期、フィリピン。
敵はアメリカ、機銃掃射で、バッタバッタと
撃たれ倒されて行く。
さっきまで腹減ったとイモの取り合いしてた
連中が、腕や脚がちぎれて内蔵や脳が飛び出し
顔の皮むけた者もいて血まみれで死んでいく。
密林の中歩いて行くと
ハエがたかった兵士の死体がゴロゴロ。
たまたま転がる死体から生存者を見つけ、
保護する米軍の様子を見て、
田村は褌を抜いて白旗代わりに掲げて、
降参❗️と米兵の前に出ようと思ったが、
先に躍り出た日本兵が、
一緒に乗っていたゲリラ兵士によって
穴だらけになるほど撃たれ死ぬ
のを見たので、また彷徨う。
当地のゲリラ兵士が日本兵を忌み嫌う理由が
わかる描写もあった。
あんな日本兵が目の前に来たら恐怖しか無い。
そうこうすると、以前に会った永松に再会し、
猿の干し肉をもらい食べる。
俺が猿を仕留めるから、あのオヤジは
俺を殺さない、と。
アメリカ兵に殺されなくとも、
この島で熱病や肺病に罹り死ぬ。
田村も肺病病みだった。
また食べる物が無く飢餓で死ぬ者も。
近年、日本から民間の団体で
遺骨収拾に赴く方々のニュースを目にする。
あの密林の遺体の状況を見ると、
かなりのご苦労だと思う。
猿は同じ霊長類でも猿じゃなかったという
現実、事実。
田村自体、銃で撃たれた自身の肩の肉を食らっていた。
帰国できて小説家みたいのようだが、
あのハッハッハッと何しているのだろう。
実話なのか⁉️内地にいる日本人には知らなかった真実、なのだろうか、
戦死と一括りにされてもその理由は様々。
いずれにしても惨い。
行き着く先の戦争
大局的でもなく、民衆目線でもない、でもこれも確かに戦争のひとつの形。
ハッキリ言って、分かりづらい部分も多い。
暗い画面や目茶苦茶に揺れるカメラ、聞き取りにくい台詞。
登場人物ほとんどが同じ軍服のため、見分けるのが大変。
大きな転換でも一連シーンでも、カットの繋ぎが上手くない。
劇中での説明が少ないので、場所や戦況などの知識が求められる。
画面から暑さが伝わりづらいのも惜しい。
しかしそれでも、迫るものがある。
グロ目の死体も出てくるが、それ以上に自然との対比が目に刺さる。
密林の鮮やかな緑の中を歩く汚い軍服は、画面のバランスとしては違和感を覚えるほど。
度々差し込まれる美しい空や雲も、状況に全くそぐわない。
でも実際にこうなんだろう。
人間の営みの如何に醜いかが、こんなにも分かり易く表現されているとは。
内容は物語というより、戦場という地獄を彷徨う様をひたすらに映す。
一部は夢や幻覚の可能性もあるが、どれも起こり得ること。
結局追い込まれてしまえば、国の戦争より個人の戦争になってしまうのはあまりに滑稽だ。
敵側の野戦病院に救われ帰還を果たすのも皮肉。
世界平和のような綺麗事ではなく、「こうなりたくないでしょ」と、“個”に訴える戦争映画でした。
第三の敵。
敗戦が濃厚となった時期に30を過ぎた老兵としてフィリピンミンドロ島に配属された作家大岡昇平の実体験をもとしたフィクションが原作。ご本人が人肉食を体験したわけでなく現地で聞いた事実をもとに想像を膨らませて書いたものだ。
原作では主人公は飢餓状態に追い込まれながらも人肉を食うか食わないか、宗教観を交えて延々と葛藤するその心理が描かれている。しかし、塚本監督はそこはあっさり主人公に食べさせる。劇中では騙されて食べるわけだが、当時の兵隊たちは食べるか食べないか葛藤する余裕もないくらい追い詰められていて、食べないという選択肢はなかったという。いかに戦争が人間をそこまで追い詰めてしまうのかと感じてそのように原作とは違う描写にしたとのこと。
本作のように日本兵同士でも殺し合って互いに人肉を食べたというのは確かにあったらしい。
補給路を断たれただけでなく、もともと人命を甚だ軽視していた日本軍では飢えから規律は失われて互いの食料を奪い合っていた。大岡昇平の所属部隊には備蓄食料があっていつ襲われるか警戒していたという。
当時の従軍兵の言葉に我々の第一の敵は米軍、第二の敵はフィリピンゲリラ、そして第三の敵は日本兵だったという証言もある。
それくらい当時の日本軍は崩壊していた。そしてそんな彼らが人間性を失うのも時間の問題だった。
これが先の戦争の実態。フィリピンの美しく自然豊かな景色とは対照的に日ごと行われた醜い殺し合い。そんな愚かな人間たちの行為をただ、自然はたたずんで見守っていた、昔から何ら変わらず。互いに殺し合う兵士たちの叫び声、怒号、銃声だけが静かな森の中では響き渡っていた。
主人公の田村は常に抗い続けた。物書きであり学のある彼は明治政府が植え付けた教育には染まっていなかった。このような愚かな戦争を否定し、けして自分は加担したくなかった。
自伝小説の「俘虜記」でも森の中で米兵に遭遇してもけして引き金を引くまいという原作者自身を投影した主人公の気持ちが吐露されている。
田村は無下に人殺しをすることを拒んだ。どんなに飢えても生草やヒルを食べて飢えをしのぎ、けして人肉だけは食べまいと抗い続けた。まるでそれが自分の人間性を保つ最後の砦であるかのように。
彼の行くところには常に野火が上がっていた。それは農民が行うただの野焼きなのか、あるいはフィリピンゲリラが自分たちを見つけたという合図なのか。それは知る由もないが、田村はその野火が自分を常に見張っている気がした。まるで自分の罪を見定めようとするかのようにそれは彼に付きまとった。
人肉食を繰り返す同僚兵士を殺して復員を遂げた田村、いまだ戦場でのトラウマに苦しめられている。そんな彼が庭先の焚火の火を見つめる。
自分は自ら人肉を食わなかった、自分は人間でい続けた、自分は罪を犯さなかった。果たしてそうだろうか、本当は猿の肉ではなく人間の肉だと知っていたのではないか。あれほどジャングルをさまよい一度も目にしたことがない猿の姿、人肉食の噂、自分は人肉だとわかってて食べたのではなかったか。
自分は罪を犯さなかったか。自分はあの無辜の女性を殺めたのではなかったか。あの戦争を否定しながらも暗黙により加担したのではなかったか。あの戦争に突入する大きな流れに抗えなかった、仕方がなかった。だから自分には罪がなかったといえるのだろうか。
あの日の野火のように燃え盛る焚火の火は今も自分の罪を見定めようとしてるかのようであった。
忽ち消え去る人間性に戦慄
Amazon Prime Video(プラス松竹)で鑑賞。
原作は未読です。
映像など、自主製作映画ならではの安っぽさが感じられ、クォリティー面では市川崑監督版には全く敵わないな、と…
しかし、生々しさは本作の方が断然上だと思いました。スプラッター映画かと思うくらいのグロ描写に圧倒されました。
餓えと渇きによって、人間性は忽ち姿を消してしまう。
人を極限に追い込む戦争の恐ろしさが胸に迫り、このような悲劇を繰り返してはならないと痛切に感じました。
現実に戦争が起きている今こそ、噛み締めたい作品。
毎年夏に再上映され続けているのも納得な名作でした。
市川崑版よりも訴えてくるものがあった
5日分の食料を持って出たため、部隊に戻ると、「せめて5日間入院してろ」などと言われ再び病院へ行くも、「肺病ごときにかまってられるか」と追い出される。食料は野戦病院で没収されたため、地元民から強奪したりもした。そして、また部隊と病院の往復・・・
廃教会で地元民の男女が現れるが、女の方を殺してしまった田村。さまよい続けて民家から塩を見つけ、やがて別の隊の日本兵4人と行動を共にする。「俺と一緒にいれば弾当たらないから」と言う伍長(中村達也)。敗戦濃厚のため、セブ島に輸送するためパロンポンに集合せよという命令が伝わっていたが、行軍中、一斉射撃の虐殺に遭ってしまう。死にかかった伍長は狂気に満ちていた。ニューギニアで人肉を食ったことがあるとか話していたが、「俺が死んだら、ここ食っていいぞ」などとうわ言のようにつぶやく。
一方、安田(リリー・フランキー)の命令でタバコとイモを交換させられていた永松(森)と再会するが、猿の肉だと食わされた干物。安田と永松は人を殺して人肉を食っていたのだ。永松はとうとう安田を殺すが、彼もまた狂気にかられていた・・・
累々と横たわるおびただしい死体の数。残虐な描写などは、戦争の激しさよりも、兵士の誰もがもう戦えなくなっていたことの方が心にガツンと訴えてくる。そして人肉問題。この描写があるかないかで戦争の悲惨さが・・・しかも正常な人間として生きていけない状態が見て取れる。
再び野火を見る。
2度目の野火を観た。監督は舞台挨拶で各地を回っている。
生で見る塚本監督は静かな、それでいて「自分の映画はヘンテコリン」と言いながらも、その映画に身一つ体当たりして行くような、そんな人だった。私この監督、大好きです。
まあ、それは置いといて、以下は15年公開当初の感想の再掲だが、考え方はさほど変わらないのでレビューとします。
「ネタバレを含むーこう前置きする事がこの場合正しいのか。何より映画「野火」は、大岡昇平の同名小説の映画化である。それをやったからとて、この映画と小説の価値が下がるわけではない。そもそも、これはエンタテインメントではないのだから…。という逃げ口上。
ー大岡昇平の「野火」を最初に読んだのは、確か図書館であったと思う。三島由紀夫熱が一時的に下がり、その合間に様々な作家の本を読んだ記憶がある。結局、最後には元の位置に戻ったのだが…。
「野火」を最初に読んだ時、私が何を思ったのか、今もって思い出せない。随分ミーハーな私であったから、軍隊における人肉食というセンセーショナルな部分にばかり興味が湧いたのだろう。そんな私であるから、また塚本晋也監督が取り組んだ「野火」を見るまで、またその前にもう一度原作を読み直した時点までで、長い間その程度の知識しか持っていなかったということになる。甚だ浅はかな読書で、全く何のための読書だったのか。あの頃の自分を殴りたくなる。せめて読書ノートぐらいつけろ。
そうしたわけで映画を観るために、私はもう一度小説を引っ張り出して読んでから、準備を万端にして映画を観に行った。
物語はだいたい要約するとこのようになるだろう。
… 塚本晋也扮する田村一等兵は肺炎を患い、原隊と彼を受け入れない野戦病院とを行ったり来たりする。病院の外では、安田という男が淋しがり屋の青年を使ってタバコを売りながら兵士たちからなけなしの芋を巻き上げる。
そのなか野戦病院、そして田村の原隊は攻撃を受け全滅する。どぎつい緑の世界を田村はさまよう。
餓え、フィリピン人の殺害などを経て、彼はパロンポンへの招集が発令された事をその過程で知る。しかしパロンポンを目前にして、兵士たちは次々殺されてゆく。その内飢餓感から、彼は人肉食に惹かれてゆく。
野火において敵は見えない。野火における主人公たちの敵は、現実通りアメリカ(連合国軍とは言うまい。大東亜戦争は世界大戦における"地域戦"である) だが、まるで得体の知れない未知の敵から攻撃されたかのように、何も守るすべなくなぎ倒され、しかばねを積み上げる。何よりもこの「ただの肉塊になる虚しさ」をこれでもかと突きつけてくるのがこのパロンポンへ向かう日本兵が一方的に殺されてゆく場面である。「鬼畜米英」や大本営発表の虚偽、連合国を過小評価していた当時の軍部のリテラシーの低さを考えると、この未知や「得体の知れなさ」というのは、切実な意味を持ってくるように思われる。
説教臭さはない。ともかく説教というのはどこかしら上からである。もっと塚本映画というのは暴力的である。同じ地平の確かな陸続きなのだ。そして地平からやってきて、こちらが観客であると言う安全地帯を徹底して切り崩そうとする。
食べ得ざるものを食べた人間の口許にはぬらぬらした血が滴っている。原作には神(のようなもの)が現れ、食べる事に警告を発するが、塚本版「野火」では、復員後、田村が奇妙な祈りを捧げているにとどめている。しかもその祈りは、食べ得ざるものを食べる前の行為に似ている。つまり屠殺という行為に…
彼は書斎を出る。その窓越しに"野火"の揺らめきを見る。
書斎を一歩出、その窓越しに"野火"を見る事は、結果として田村の中にある戦争が継続途中である事に他ならないのである。継続、あるいは永久戦争であろう。
ドイツワイマール体制下において、作家エルンスト・ユンガー曰く「両親の実家に復員していながらも、居間で野営している」(「冒険心」)という事そのままではないだろうか。
ここからある共通項を見出しえないだろうか?即ち、平和主義者も、対局の好戦主義者(これを対局と言えるのかどうか…)も、一度"野火"ーそれに類似する表徴を見てしまった以上、嫌が応にも戦争を継続せざるを得ないのではないかという事である。もっと言えば、戦争という宿命の場面に強制的に立たされる事を意味しないか。この位置から決して逃げ出す事はできない。特に一度体験したものは、そうであろう。
戦争は彼ら体験者にとって終わるものではない。(知った風な口きくな?ごもっとも)ポツダム宣言の受諾、終戦の詔勅、連合国軍による占領統治、サンフランシスコ平和調印によるカッコつきの主権回復を経ても、それでも戦争は終わらないのだ。人々は如何しても戦争を終わらせたいらしいが…。だが、戦争を継続するという事がどれほどの苦難か。
そのカッコつきの「戦闘」シーンについては如何やら「やりすぎだ」との意見もあったようだ。しかしそもそもこの映画が、あるいは現実が映す戦争とはやりすぎかそうでないかの「程度の問題」を比較するようなものであろうか?
戦争とは「徹底」している事だ。「貫徹」するという事だ。「徹底」したもの「貫徹」したものに、やりすぎも何もない。
創作物は製作者の意図を越える。いや寧ろ多様化する。人が考えるのは、その作品から受け取る、いわばプラスαの部分である。作られた時には個人的でしかなかった者が、ミームの受取手の誤読によって全体へと変化する。
この時大岡昇平の市川崑のそして塚本晋也の、彼らが意図していた意図を越え、ともすれば読者、視聴者の意図も越えてしまうのである。私の意図も越えるだろう。この時物語は独立し、全体になり、支配する。
塚本晋也は「徹底」し「貫徹」している。氏は了解しないだろうが、彼こそ"戦争"ではないだろうか。支配的なものに対する新しいやり方の"戦争"」
テーマ
映画しか見ていないので、その範囲でしか言えませんが。
主人公の田村は非常に優しい人物として描かれています。芋を盗もうとして上官に殴られる永松をかばって、田村は自分の芋を差し出して許しを請います。その直後、アメリカの機銃掃射で日本軍の基地は火の海になり、永松はどさくさに紛れて田村の芋を奪おうとします。
恩を仇で返されたわけですが、その後再会したときも、永松の境遇を不憫に思った田村は、再び芋を差し出します。一度裏切られた相手に二度も親切にします。このときに主人公に感情移入できる人もいれば、仕返しをするくらいに思う人もいるかもしれません。
田村にしても芋をあげた直後に襲ってきた空腹で、「あんなやつにやるんじゃなかった」と後悔するわけですがw
しかし、このことが後に田村自身を救うことになります。
いよいよ空腹で、千切れた人間の四肢を目の前にして、ムシャぶりつきそうになっているときに永松に再会します。そして猿の肉をもらって食べることで命をつなぎます。猿の肉というのは嘘で本当は人肉です。
騙されて人間の肉を喰わされるわけですが、千切れた人間の四肢を目の前に自分の倫理観と戦って、絶命するかもしれないところを救われたわけです。
安田を殺して食おうとする永松を、田村が止めようとすると、永松は「じゃ、俺がお前を食うか、お前が俺を食うかどうするんだ?」と詰め寄られます。極限まで追い詰められて、生き延びるためにどちらか一方が食われるしかない状況のように思われます。
しかし、お互いに殺し合うことはありませんでした。田村は永松になぜ自分を殺さないのか?と聞きますが答えは返ってきません。長く行動を共にした安田を食べようとするほど、人として壊れているように思える永松が、田村を食べなかったのはなぜでしょうか。
田村は自分さえ生き延びればいいという発想とは逆の、いわば人間としての感情を失わないことで、逆に生き延びることになります。フィクションなので、お人好しが都合良く生き延びられたと言われればそれまでですが、少なくとも作者は極限の状態でも人間性への可能性を読者に提示したかったのかなと。
近頃は攻めるか攻められるか、殺すか殺されるかといった二者択一的な思考が流行っているようですが、そうじゃない第三の可能性もあるのではないか。そんな問いが発せられているように思えます。
第三の可能性とは何かと聞かれれば難しいのですが、なぜ永松が田村を殺さなかったのか?そのへんがテーマになるのかなと。
蠅の羽音はベルゼバブの笑い声
観ようか観まいか悩んでいた映画。
塚本監督の作品は一つも観たことがなく、『鉄男』という有名な作品さえも観ていない。俳優としてはいくつか見かけたことはあったが。
でも、この映画は絶対観なければならない、その為に地方の映画館で、リバイバルが行われているのだから。特にロケ地であった埼玉県の深谷市ではこの映画を重要視していると感じた。
内容は、沢山のレビュアーさんが細かく描写していらっしゃるので、そちらに任せたい。
私の感想としては、この世の地獄がフィリピン、レイテ島で繰り広げられていたことに改めて思い知らされた。そのギャップの激しいこと。どこまでも澄んだ自然、狼煙を上げるような煙、極彩色のジャングル、そして、人間の肉、血、本能・・・
そんな世界で、人が人を喰らうことで、それでも生きたいと願う渇望。騙し、騙され、あるいは暴力で攻撃していく狂った人間。戦争の本質は正にここなのだと、頭を揺さぶられる圧倒感がそこにある。
それでも人間は同じ過ちを繰り返す。多分、これからもずっと。。。
この世界に放り投げられたとき、真っ先に死ぬのは自分なんだと改めて自信を持って想像できる。だからこそ、こんな状況にならないようにしなければならないのだ。
弱い人間の戯れ言かもしれないが。。。
ブランキージェットシティのドラマー(中村達也)が、伍長役で出演している。この人、観たことあるなぁと思ったら、斉藤和義とユニットを組んで、ドラマのエンディングをやっていたのを思い出した。そうか、この映画はロックなんだ。
こわい
淡々とした構成でところどころ寝てしまった。塚本監督のテンポ感は毎回眠気を誘う。
戦争の極限状況にありながら寝てしまった。急に敵に銃を乱射される場面はびっくりした。
人肉を食べるところはそれほどセンセーショナルな表現でなくてよかった。戦争は恐ろしい。
空回り気味では?
見終わった直後は、すごい衝撃を受けた気がしたが、振り返ってみると、、、
原作はだいぶ前に一度読んだきりで、詳細は覚えていないが、主人公が極度の飢餓状態で、常に意識が朦朧としたままジャングルを彷徨うという印象だけが残っていて、その感じは再現されていたと思う。
しかし、映画は冒頭からかなり辛い状況で、主人公や周りの兵がまともな感情表現をしないため、イマイチ共感しづらい。
原作に忠実なのかも知れないが、普通の人間が変わってしまう様を描くというのなら、もう少し手前の日常描写を入れても良かったのでは?
また、予算の関係で周りを撮すまいとする配慮なのか、あえて狙った演出なのか、役者のアップが続いて、何が起きてるかよくわからない場面が多々あり、ますます映画に入り辛くなった。
自然の美しさとの対比を見せたかったようで、その意図は充分伝わってきたが、ドラック的な見せ方もちょっとクドい。
日本兵が大量に殺されるシーンは、プライベート・ライアン以降の超リアルな戦争映画と比べざるをえず、どうしてもチープに見えてしまい、かえってリアリティーが損なわれている。(手足がちぎれたカットはショッキングだが、その銃撃でそうなるかな?と思ってしまった)
予算が少ないならガチの戦闘シーンは避けて、違う見せ方があったのでは?
監督自身が主演も務め、別人のように痩せた姿は凄まじいが、パンフを読むと絶食のせいで演技する余裕もなかったらしい。
つまりそれは、監督として客観的な演出が出来る状態じゃなかった、ということ?
どうも監督の思い入れが強過ぎて、空回りしてる気がした。
「野火」という作品を全く知らない人には、いまひとつ伝わない映画だと思う。
(リリー・フランキーは出ていること気づかないくらい別人で、あとで知ってビックリした)
警鐘
戦争はダメとか、悪とか、そんな事どうでもいい。
そこに行きたくない。
信念も義も、そこには何一つない。
英雄譚なんてあるわけない。
人を人たらしめんとする、その全てが入り込む隙間がない。
傭兵が主役の映画なんかクソくらえだ。
そんな事を感じた程の惨劇が投影されてました。
幼い頃、「はだしのゲン」を読んで以来の衝撃だった。
折しも戦争に関する法案が、日本で可決されようとしている。
…軍事介入はしちゃダメだ。
必ず巻き込まれる。
見解の相違とか、文化の違いとか、そんなの通用しない。やられたからやり返す。
そこに人間は居ないのだから。
理性が発現しない。
獣しかいない。
日本の一番長い日を観た後での観劇。
本国は言わば、デスクワークだったのであろう…。
現場は、文字通り「地獄」だ。
何故「死」を選択しなかったのだろう?
劇中では、残してきた者への恋慕なんかも描かれてる。
死への恐怖?
何かに負けてしまう事への憤り?
生への執着?
…俺には分からない。
映画を見ながら、何故みんな諦めないのだろうと思った…。
あの状況下、何故、生きていたいと思えたのか。
…対比なのかもな。
死んだ後が、目の前に日常的に提示され続ける。
ああは、成りたくないと思うのだろうか…。
大好きな塚本晋也監督の新作。 上映開始後、割と早めに彼のトレードマ...
大好きな塚本晋也監督の新作。
上映開始後、割と早めに彼のトレードマークである、手持ちカメラ、手ブレ、寄りの画、が見れる。あぁ、俺はいま塚本映画を観ている…という感じ。至福。
自主制作という事で、限られた予算の中で、安っぽくならないようにとても巧みに演出していた。
特に敵の爆撃シーンでは、敵の姿や爆撃機の姿は一切映る事なく描き切った。
この映画では敵の姿だけでなく、命令を下す人間なども描かれていない。
大岡昇平の原作通り、戦争を経験した兵隊の目線で描き切る。
監督は、美しい大自然の中で滑稽に四苦八苦する人間を描きたかった、という事なので、敵や上官が映らなかったのは、予算の関係だけでなく、コンセプト的にも正解だったろう。その構成は「ハウルの動く城」と同様である。あの映画も、戦争をしているとうの本人たちはほぼ出ずに戦争に巻き込まれる平民を主軸に描かれる。戦争する理由さえ謎のまま。
塚本晋也の特徴であるエグさも、屍体に出ていた。脳みそが飛びてた屍体や、その脳みそを踏んづけて走るシーンはトラウマ。また攻撃により右腕をもぎ取られた2人の兵隊が一つの腕を取り合うシーンは、プライベートライアンのブラシュアップバージョンといった感じでとても良かった。
僕の塚本晋也作品の好きな所、「ヘイズ」などに見られる、ブツブツ独り言を言ってる感じとか、好きなのだが、そういうのは割と少ない感じ。しかし、なんだか解らないが異様で恐い雰囲気。例えばヴィタールの血のない内臓や、ヘイズの一体何が起こってるのか解らない恐怖は、一体何のために戦争をしているのか、もはやそれすらもわからない、といった形で現れていた。
一見の価値は大アリの作品だと思う。
たぶんバランスが悪いんだ
時間があったので劇場をフラッと覗いて鑑賞
予備知識が全然なかったので開場までの時間を使って、公式HPなどで情報収集
観客はどちらかというと年配の方が多かった印象でした。59年にも一度映画化されているとのことで、「そのリメイクだ」ということで観に来ている方が多かったと考えています。
塚本監督の作品は「鉄男」「殺し屋1」を見ていて、『グロイ作品を撮る監督だ』というイメージを覆してくれることを期待していました。
肝心の感想は「最終的にグロイ映画だった・・・」です。
監督自身は「過酷な戦況」を表現したかったのだと思いますが、そのインパクトが強すぎて、そのあとのメインテーマ(食人)が全然入ってきませんでした。
自分の感想
STEP01:過酷な戦況(うぁ、結構リアルに殺すなぁ)
STEP02:過酷な戦況(うぁ、ハチの巣だぁ、脳みそ出ちゃってる、殺し屋1でもこんな感じだったなぁ)
STEP03:過酷な戦況(つーか、観に来ている、おじいちゃん達大丈夫かな?『こんな映画観に来たんじゃ無い!』とか怒ってないかなドキドキ)
↓
STEP04:食人(あーおじいちゃん達ダイジョブかな?自分は耐性あるけどドキドキ)
原作が古いことを考えると、ある程度年配の方々が観ることを考えて、戦争描写はある程度マイルドにしたほうが、よりメインのテーマが伝わると思います。(グロイ映画を見に行ったわけではないので)
出演者
栄養状態良すぎな人ばかりな気がした。
人をも食べてしまうかもしれない極限状態を描いている筈だが...?
どうせ演技下手な人起用するんならガリガリの素人さんだったらもっと低予算で済んだのに(セリフも少ないし、ハキハキ喋る必要ないし)。
原作読んでみようという方が増えたらこの映画も意義深いものだと思います。
題材は良いと思うのだが・・・
原作積読(持っているが未読)
良い(好意的に見られる)ところ
1.戦争映画として?邦画では定番の女子供が出てくる、いわゆる「お涙ちょうだい」シーンがない。
2.実戦場のような、とことんグロく、目を背けたくなるようなシーンの再現への努力が見られる。
悪いところ
3.ストーリーがさっぱり分からず、映画とは思えない。監督の自己満足?
4.血が噴き出すシーンなどが安っぽい。
5.カメラワークが悪い。
6.結局の意図が分からず、原作を読んだ方が早い?
1.邦画の戦争映画の多くは、女子供を相手に商売しているのか、必ず女子供を絡めたお涙ちょうだいがあり、辟易するが(実際に戦場に行き痛い目に合うのは男たちである)、この作品では銃後の話がほぼ皆無であり、大騒ぎするほどでないにしろ画期的に思われる。残念ながら、小さな映画館でしか上映されないようであるが。
2.後述するようにストーリー的な評価はゼロに近いが、およそ、戦記などで語られているグロい部分を具体的に映像化しており、あまり見たいものではないが、その努力は評価したい。戦争の「カッコよさ」げな部分は見事に排除され、ただただ、戦場での狂気が描かれている。
3.致命的なのは、ストーリーらしいストーリーがないこと。原作を読めと言うことかもしれないが、映像作品としてその中で完結していなければならないはず。監督が自分の描きたいところだけ描いたような、単なる残虐映像作品になってしまっているように感じる。例えて言えば、プライベートライアンの前半部(上陸シーン)だけを抜き取り、それを全編にわたって流しているような印象。プライベートライアンは国家礼賛の要素も少なからずあり、この監督の意図するものではないようだが、なにがしかの背景やストーリーがないと、作品としては印象に残らない。
4.画竜点睛に欠けると言うか、血が噴き出すシーンにリアリティがない。このため、その他諸々も嘘くさく見えてしまう。また、広いジャングルで意図したように敵の機銃掃射が当たるシーンがあるが、2度も3度も織り込むものではない。
5.初めに見た印象。特にアップが多すぎである。現場状況が全くつかめず、一兵士の視点で考えると鳥瞰的な視点は不要であろうが、もっと引いた画を見たかった。
また、ハンディカメラの多用も、臨場感と言うよりブレが酷く、船酔いに思えてしまい不快だった。普通に撮れないものか。過ぎたるは及ばざるがごとし。ハンディカメラはUボートなどでも使われたと思うが、あれは閉じた空間だからこそ生きるのであり、ドアップなうえに画面ゆらゆらはないだろう。
6.ラストはある程度予想はついたが、正直、制作意図がさっぱり見えなかった。ガダルカナル攻防戦を扱ったシンレッドラインも全く中身を覚えていないが、この作品も同類か。印象に残るのはホラー映画的な映像表現のみ。個人的に駄作と言っても良い。
その他
・会話の中で「全然良い」的なセリフ(具体的セリフは失念)が現代的に見え、興醒め。この作品、兵士の言動は総じて現代風に聞こえる。
総論
映画としては稀に見る駄作かもと思えるが、今後の邦画の戦争映画の発展を考えるに、戦場での悲惨さをちゃんと描写してほしいので(お定まりのお涙ちょうだいは結構)その点では評価できる。また、ナレーションで説明しない点も良い(ただそれだけでストーリーがないような今作には必要だったか)。
戦記などを読むと、再現すべき映像はいくらでもありそうなのに、いつまでたっても大和とゼロ戦。あるいは架空戦記。さらにお涙ちょうだいのメロドラマ。
最前線のみの映画がやっと出てきたと感じる。ホラー映画的なのが、いささか残念。
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