野火 : インタビュー
塚本晋也監督「野火」に込めた切実な願い
安保関連法案が与党の強行採決によって衆院を通過した。これまでの憲法解釈では認められていなかった集団的自衛権の行使が盛り込まれており、多くの批判が広がっている。その不穏な流れにくさびを打ち込むべく公開されるのが「野火」だ。日本の安保政策が大きな転換期を迎える戦後70年。かねて日本が戦争に向かっていると懸念を抱いていた塚本晋也監督は、「そういう時代になるのを、何とか食い止めるひとつの行為になれば」と切実に願っている。(取材・文・写真/鈴木元)
夏目漱石、太宰治ら文豪たちの日本文学を読みふけっていた高校時代、塚本監督が大きな衝撃を受け深く心に刻まれたのが大岡昇平の「野火」だった。
「本当に戦争を体験しているような小説だったんです。戦争ものの小説は世の中にたくさんあるけれど、昔のことだったんだろうなと感じてしまうんです。でも『野火』は戦争が今起こっていて、自分がその中にいるようなリアルな感じがしたんです。それで心にずっと残り続けたんですね」
第2次世界大戦末期のフィリピン・レイテ島。日本の敗色が濃厚となる中、結核にかかった田村一等兵は部隊からも野戦病院からも追い出されてしまう。食料もほとんどなく、もうろうとしたまま島内をさまよう田村は周囲の兵士たち同様、徐々に精神の均衡を保てなくなっていく。14歳から8ミリカメラを手にしていただけに、脳裏にははっきり映像が浮かんでいたという。
「大自然の美しい描写と、その中で土色のドロドロとした愚かしい動きをしている人間の対比が、すごくくっきりと印象に残りました」
そのイメージを具現化させようと動き出したのは20年前。企画書を作成して海外に出資を募ったが、作品規模の大きさもあって思うように集まらなかった。10年前には、レイテに派兵された戦争体験者が85歳になっていたことからインタビューを始め、脚本も執筆して奔走したが実現には至らなかった。だが、その意欲が衰えることはなかった。
「20年もやろうと思っていた映画なのに、今は時世というか機運的に作りづらい状況になっている。下手をしたら社会全体がこういう映画を受け入れない世の中に変わってしまうんじゃないかという恐怖と危機感ですね。今作っておかないと作品自体も生まれないし、自分が望んでいない時代になる前にぶつけて、何とか食い止める行為にならないかという気がしました」
雌伏の期間にも日本が戦争容認に進んでいるのではという危惧は常に抱いていた。2011年の東日本大震災によって、その思いはさらに強くなる。年々少なくなっていく戦争体験者の言葉にも背中を押された。
「新聞を読んだり勉強熱心な方ではなかったんですけれど、そんな臭いがプンプン感じ取れていて、映画にしたいと思ってからちょっと意識的に勉強すると、間違いなく戦争の方に向かっていると。そして、震災で放射能が漏れたことで、日本のからくりみたいなものが見えてきた時に、水面下で戦争をしたいという大きな動きがある気がしてならなかった。戦争は圧倒的な暴力でとても大きな苦痛を伴うことですし、戦争に実際に行った人たちは2度とするべきじゃないと口をそろえて言う。そういう痛みを知っている戦争体験者がいることで、食い止めていたのかもしれないとも感じました」
もう待ったなし。大岡昇平の親族に手紙をしたためて映画化権を得たことで、一筋の光が射す。かねて想定していた資金はなかったため、監督・脚本・編集・撮影・製作を兼ねる塚本流の自主映画としてのスタート。田村一等兵も自ら演じた。
「許可を頂いてからは、やれるということで突き進むのみという感じでした。自分で演じるのは最後の選択肢で、独りで小さなカメラを持ってフィリピンに行って演じようかというところから始めているんです。一番下のところから始めればそれ以下の映画にはならないという読みでしたが、作ることがとにかく大事で、お金がないからできないって逃げることは許されない状況になっていました」
田村のみのシーンや実景のほとんどは、カメラマンら最小限の人数でフィリピン・ロケを敢行。異常なほどにやせ細った田村が、生き残ることに執着する姿は鬼気迫るものがあり、まばたきすることも許されないほどの迫力だ。
「やっぱり、きつかったですね。やせて出演をして、カメラや全体的なことも考えるのは体力的にもたなかった。それでもやらなきゃいけないので、けっこう危険な感じでした。カメラマンを1人連れて行けたので“自撮り”じゃなくてすんだんですけれど、走っているシーンで崖みたいな所に落っこちそうになったり。今だから笑って言えることですけれどね。でも、絶対に必要な絵(映像)はフィリピンで撮れています」
リリー・フランキー、森優作らと群像、戦闘シーンなどは沖縄、埼玉・深谷などで撮影し、「今までの映画で一番難しかった」という編集で融合させ、完成にこぎつけた。公開が戦後70年という節目、安保法案に対する議論が活発化しているこの時期になったのは必定だったのかもしれない。
「戦争体験者がだいぶ少なくなっていることに強く関係していますから、お客さんに何とか肉体的な痛みを感じてもらいたい。戦争を体験した人の声を聞いて引き継いでいくという意味合いもあるので、ちょうどいいポイントになるんじゃないかって気がします。地震の後で(戦争容認の風潮が)さらに加速している感じがして、その時期に作ろうと思ったのである意味、間に合って良かった。若い人はぎゃふんってなると思うんですけれど、ちょっとトラウマにしてもらって体にしみ込ませてくれればいいなと思いますね」
決して戦争反対をメッセージとして声高に叫んでいるわけではない。塚本監督も口調は終始穏やかだが、かつて日本人が戦争によって強いられた苦難を忘れてはいけないという思いが痛切に伝わってきた。我々も真正面から受け止め、苛烈な歴史から目を背けてはならないと強く感じた。